青海シンドローム

 ざあんと波が砕ける音が渇いた空に溶ける瞬間を、キッドは目にすることが出来なかった。
 ただ振り向いたそこには、黄色のパーカーに馴染み切れない程の太陽を抱えた痩身が在って、暫しその境界が分からなくなる。
 
 「どうしたんだ、それ」
 「フフ、いいだろ。やらねえぞ」
 
 言うなりローはすたすたとキッドの横を通り抜けて、一直線に崖へと歩を進める。
 
 「おい」
 
 真坂飛びこむつもりじゃないだろうなと一抹の不安を感じながら呼び止めると、華麗に無視を決め込まれるも取り敢えず立ち止まらせることには成功したようだ。
 否、そもそもローが飛び込む心づもりだったという仮説を裏付けるものもありはしないのだが。
 
 「…………飛び込んでも、助けてやれねえぞ」
 「誰が」
 
 一応懸念を口に出すと、きょとんとしたようにローは呟いた。
 幸運と言うべきか生憎と言うべきか、兎角懸念は杞憂に終わったようだ。
 
 「そら、お前の好きな向日葵だ」
 
 ばさりと大仰な程の仕草を以て暗い海に投げ込まれた黄色の花は、暫く波間を揺蕩った後ひとつ残らずその色彩を納戸の隙に沈めてしまった。
 
 「…………どうしたんだ、それ」
 「うん?」
 
 そのまま海を見つめて動かない背に堪らず声をかけると、やや拍子抜けした相槌の後に息を吐くような独白が為された。
 
 「視界一杯の向日葵を見るのが夢だなんて零しやがる、馬鹿な奴だったんだ」
 「…………」
 「北の海に向日葵は咲かねえ。だから、いつかこの目で金色に染まる畑を見てやるんだって、海に出た瞬間から嬉しそうに豪語してやがった」
 
 叶えてはやれなかったが、そう言うローの目は相も変わらず感情を写さない青灰の色をしていた。
 
 「流石に海を埋め尽くす程の量は撒けないが、水底から見れば太陽光の金と白が手伝ってきっとそれなりに綺麗な空が拝めるだろうさ」
 「…………そうか」
 
 眩し過ぎる陽光に目を細めるその頬が白く冷めているのをぼんやりと見つめて、思いつくままに言葉を重ねた。
 
 「キラーの髪色にしか見えなかったな、向日葵なんて」
 「何だ、キラー屋の髪貸してくれんの?」
 「馬鹿言え」
 「フフ、つまんねえの」
 
 今頃船の中で盛大なくしゃみが響いているかもしれない。
 
 「…………向日葵の咲く丘にでも埋めてやればよかったんじゃないのか?」
 「それも考えたけど」
 
 海賊は海に還るものだろう?
 魔法の言葉を口にするように溶けた笑みを零すローに、キッドは少し嫌な顔をする。
 
 「海に嫌われた身体が聞いて呆れるな」
 「そう言うなよ。これでも俺は海を愛してる」
 
 好きで好きで、堪らない。
 いっそその透き通る毒薬をこの身の全てに通わせて、指先のひとつも動かせない程に犯されてみたい。
 
 「…………相変わらずの奇人ぶりだな?」
 「お前に言われたくはねぇよ」
 
 褪せた藍の色をした髪に首の落ちた花を射してやると、擽ったそうにローは身を捩った。
 そのまま囲い込むと、天邪鬼も嘆く程の声色で抵抗の言葉が泣きそうに地を滑る。
 
 抜けるほどに白い雲と蒼い空は、世界へ嫌味な程に澄ました顔をさせていた。



 2012.05.14.