幻想は未だ徒めいて

 気丈に振舞っていると言う訳ではない。
 あくまでこの人は、いつも通りなのだ。
 飄々と掴めない態度を取って、それでいて追わずにはいられない背中を見せる。
 しかし長く長く時を共にしてきた者から見れば、その眉間に寄る皺の一本、応対のタイミング、歩く速度、全てがいつもの彼でない事など、すぐに知れてしまう。
 けれどそこを突かれるのはきっと彼にとって本意でなくて、そしてそれは自分がしても良いことでもなくて。
 
 人知れず心を殺したその人に、いつも通りの相槌を打つことしかできなかった。
 
 
 +
 
 
 「何をした」
 「何って」
 
 夜の森、泡沫の立ち昇る、月明かりに照らされた木陰で開口一番にペンギンはそう言った。
 問われた本人は依然きょとんとした様相を崩さず、不思議そうに此方を見ている。
 否、見られているかは分からない。
 ここ最近では随分と無沙汰になった奇妙な仮面を、何故か今日ばかりは被り付けているキラーはただ此方に身体を向けているだけで、その目はひょっとすると何処か当ても無く遠い所を見ているのかもしれないと、不意に思った。
 
 「船長が、」
 「…………ああ」
 
 その一言で、全てを諒解したらしい。
 少しだけ声に哀切を乗せて、空を仰いだ。
 
 「明日、出航するんだ」
 「!」
 
 思いも掛けないその言葉に酷く驚くと、その反応が意外だったとでも言いたげにキラーは心外な声を作る。
 そんなこと、思ってもいなかっただろうに。
 少なくとも、急な出航を告げたのがペンギンの方だったなら、確証はないがそれでも彼は酷くうろたえた筈だ……多分。
 
 「そんな、急に」
 「だから、トラファルガーも取り乱していたんだろう」
 
 出航。
 それは、別れを意味する二文字。
 
 この広い海でルーキー全てが一時に顔をそろえたこと自体が奇跡なのだ。
 一度レッドラインを抜けてしまえば、広がる魔の海で再会を叶えることは酷く難しいだろう。
 
 偶然に顔を合わせて、偶然に想いを寄せ合ってしまった。
 世間から見ればその関係は決して褒められたものでも、ましてや賛美される物でもない。
 億越えの海賊が二人、それも同性で閨を共にする仲などと、この海じゃ性別なんて大した差にもならないとは言いつつ仲間内からしても知られたくは無い事実だ。
 
 けれどそれでも、そこに通じてしまった想いはどういうわけか仮初のそれではなくて。
 柄にも無くのめり込んでいるのを、感じてはいた。
 
 そこに急な出航の知らせなどあれば、幾らローといえども動揺するに決まっている……否、急ではないのだろう。
 明日の出航ならば、きっと随分と前に船のコーティングは終わって居た筈だ。
 予定など幾分前から決まっていただろうし、伝えようと思えばもっと早くに伝えられたに違いない。
 
 その事実が、一層重いのだと、何故か分かった。
 
 「如何して今まで言わなかった」
 
 一番彼が吐きたかっただろう科白、けれど吐けなかったであろう科白。
 それを代わりとばかりに焚きつけると、心外だとでも言わんばかりにキラーは声を返した。
 
 「どうしてそんな内部事情を、敵に言わなきゃならない?」
 「…………今更、」
 
 敵面をするのか、と言いかけて、紛れも無く今目の前に立つ男と自分は敵対関係にあるのだと言うことを思い出した。
 
 「…………俺が何か言えた義理でもない、か」
 「…………」
 
 自嘲気味に言葉を漏らすと、少し相手の纏う雰囲気が変容したような気もしたが、構わずペンギンは先を続けた。
 
 「袖振り合うも他生の縁、躓く石も縁の端。だがこの海じゃ、一々の出会いを後生大事に抱えている訳にもいかない……その点じゃ、うちの船長も未だ"人"だったってところかな」
 「…………」
 「何、あの人の事だ。直ぐに切り替えていつも通りに戻ってくれるさ」
 「…………おい」
 「全く、自業自得と言えば自業自得だが、ユースタスも大概な野郎だな。流石は海賊と言ったところか。ピロートークに別れ話を切り出すなんて」
 「おい、ペンギン」
 「今度会ったら一発殴ってやる……つってもまあ、賞金額も大したことはない俺が掛かっても、返り討ちにされるだけかな」
 「聞いているのか」
 「そうだ。なあ、武人。俺の代わりにあの憎たらしい面に一発叩きこんでおいてくれないか」
 「ペンギン!」
 
 言葉が口を突いて止まらない。
 流れ出す言の葉は冷たい雫を伴って留まる所を知らず、ただつらつらと自堕落に落ちるそれは、視界が金糸に染まってからも止む所を知らなかった。
 
 「何故泣く」
 「泣いてない」
 「じゃあその涙は何だ」
 「お前の目がおかしいんじゃないのか」
 「…………俺は」
 
 続く言葉を飲み込む。
 言葉を止めても未だ止まらない涙の雨は遠慮も無く斑点模様の背を濡らし、黒い布地が更に玄を深めるのを見て、ほんの少しだけ申し訳ない気持ちになった。
 
 「俺は、お前が」
 「言うな」
 「ペンギン!」
 「お前が今その言葉を口にしたら、」
 
 串射す、と。
 袖に仕込んだ刀を回した背に構えて、ゆっくりと呟く。
 低く低く、聞き取れないくらいの声音をその耳元で――――最も、口を寄せる仮面の下が耳かどうかなんて、確証を持っている訳では無いが。
 それでも意図を解しはしたらしく、再び口をつぐんだ男に向かって俺はもう一度口を開いた。
 
 「刹那感情に、俺は身を任せることなんて出来ない」
 「…………」
 「俺にはあの人がいる。この命の所有権はとうに放棄して、拾ったのはあの人だ。尽きるまであの人の為に使う。それはお前も同じだろう」
 「…………違いない」
 「意味の無い命に感情は不要。命の捨て時を誤るつもりは毛頭無い」
 「…………」
 「だからその言葉は、聞かない」
 
 聞いたらきっと駄目になってしまうから。
 そう言って綺麗に笑ったその人の目には、数えきれないほどの寂寞が浮かんでいたけれど。
 きっとそれを指摘して、いざ消さんとこの痩身を抱き込んだ腕に力を込めた所でそれは何の解決にもならないのだろう。
 ありもしない、幻想めいたこの関係に瑕を付けてしまうだけだと分かっている。
 触れることも叶わない幻に瑕が付くなんておかしな話だが、少なからずそれが真理であることをキラーは知っている。
 
 絡めた腕を解き、静かに背を向けて、そうか、とだけ、一言を返した。
 
 「…………この言葉を後悔する日は来るのかな」
 
 体勢を立て直したペンギンが此方に背を向けて、酷くモノクロな声で問う。
 
 「…………俺は、忘れない」
 
 大事な所は伏せて、出鱈目で並べた言葉に深い意味はなかった。
 それでも、彼は笑う。
 
 相反する方へ歩きだす影は、振り向いた次の瞬間互いに殺戮の対象となるのだろう。
 その事実が酷く哀しく、それでいて酷く普遍的で、僅かな光しか受け入れることのできないこの仮面を酷く煩わしく感じた。



 2011.10.07.