深海二〇〇〇〇メートル

 上下5ミリも外さず、只管に的確な手捌きで得物を喉元へ振り抜いて行く。
 気持ちの良い程すぱりと切れた相手の頸動脈は美しい弧を描いて生命の水を噴き出し、空を赤く染めた。
 返り血を吸って重くなった着衣に舌打ちをしながら果ての見えない襲撃を蹴散らすのには、もう幾分か飽きが来ている。
 
 「船長――――!避けて下さい――――!」
 
 後方から聞こえるシャチの声に反射的に飛びずさると、丁度今ペンギンとローのいた位置に降り立ったジャンバールが、その巨体で賞金稼ぎ達を薙ぎ倒してゆく。
 此方からすれば随分と良くなった視界に相手は流石にひるんだようで、期を見ながら徐々に撤退の準備をしているようだった。
 
 「甘いな」
 
 底冷えのするローの声に振り向けば、凄絶な笑みを浮かべた船長その人がそこには立っている。
 遊びをやめた彼の本気に到底彼らの逃げ足など叶う筈も無くて、瞬きの間に辺りは人体のパーツで埋め尽くされた。
 
 「腕が上がったんじゃねえか、ペンギン」
 
 返り血でつなぎをしとどに染めたペンギンを振り向いて、此方は頬に一滴の赤を乗せただけのローが言う。
 
 「流石は俺のペンギンだ。なあ?」
 「…………」
 
 称賛の言葉は素直に嬉しい。
 けれどこれが実力の向上なんて言うものに起因する訳でないこと位、ペンギンには嫌という程分かっていた。
 
 彼の背を最後に見てから幾週間。
 そう易々と航路が交わる筈も無く、次に会えるのが何時なのかなんて、航海士の自分にすら分かる訳は無かった。
 
 早く会いたいなんて言う女々しい気持ちは全く無い、と言うつもりは無い。
 ペンギンは滅多にその心情を顔に色として出すことはしないが、かといってそこまで自分の感情の機微に鈍感であるつもりは無いからだ。
 その想いは只自分をこの世に繋ぎとめて、迫り来る死から一時でも長く逃げ続ける道を選ばせた。
 
 この人の為に命を散らそう。
 軽快に死体の山を踏み越えるローの背を見て思う事は以前と変わらない。
 けれど心のどこかでその瞬間が少しでも遅れれば良いと、願う自分がいることを否定は出来ない。
 
 死にたくない。
 その一心がペンギンを突き動かす。
 せめて、その浅葱の瞳を今一度この目に焼き付けるまで、命を絶つことは出来ない。
 彼の為に死ぬと言い、彼の人の為に死ねないと言う。
 その酷く矛盾した想いはナイフを振り抜くその速さを、戦場を駆け抜くその速さを、鳥の目に映る夜闇の色を、一層深くする。
 
 「その調子で、明日も生きろよ」
 「…………分かって、います」
 
 ああ、何時の間に俺はこんなに弱くなったんだろう。
 恋をすると人は強くなるなんて言う決まり科白があるが、そんなのはきっと、嘘だ。



 2012.02.18.