紅の毒

 「やっぱり、流石のお前には敵わないな。伊達に億越えの首はぶら下げていないか」
 「…………当然だ」
 「殺戮武人の二つ名は大袈裟じゃあなかったな」
 「…………何が言いたい」
 「俺にも、良く分からない」
 「…………理解に苦しむな」
 「はは…………」
 「…………」
 「なあ、キラー」
 「何だ」
 「俺は、仮定の話が嫌いだ」
 「…………」
 「あのときこうしていれば、とか、もしもこれがああだったら、とか。現実に為し得ないことを想像するのは時間の無駄だし、何よりそれを"仮定"と割り切って現実から切り離して考える、そんな生産性の無い思考回路には吐き気がする」
 「…………」
 「…………けど、どうしても、拭えない"もしも"があって」
 「…………拭えない?」
 「ああ。考えても考えても、こんなのは時間の無駄で、無為なことでしか無くて。全く以て意味の無いことだと、現実性のないことだと、起こり得ないし起こし得ないことだと分かっているのに、考えるのをやめられないんだ」
 「…………それは、俺が聞いても良いことなのか」
 「うん、お前だから聞いてほしいのかもしれない」
 「…………」
 「否、本当は、お前にだけは絶対に聞かせたくない話、なのかもしれないけど」
 
 ざあざあと雨が降る。
 鼓膜を打ち破りそうなその激しい音は周囲の騒音を全て飲み込んで、いっそ無音の世界さえを作りだしているようだ。
 叩きつける様な雨粒に景色は霞んで、多量の出血に茫洋とし始めてから随分と経つ視界は最早目の前にある彼の輪郭すら捉えてはいなかった。
 
 色彩も無い世界でモノトーンに沈んだ影はそれでも一目に分かるほど白い貌をして、血の気の失せた唇は失血による寒覚に戦慄いている。
 腹に空いた風穴からはどす黒い血が止め処なく流れ落ちて、風を切る様な呼吸音は弱くなり始めて久しい。
 
 世界は閉じていた。
 けぶる血の匂いも、立ち込める硝煙も、劈く断末魔も、全てを雨が洗い流し攫ってゆく。
 首筋に宛がわれた刃の冷たさも疾うに零れ落ちる水滴に馴染んで、傷の痛みをも奪う水流は留まる所を知らないようだ。
 戦場の喧騒を忘れた世界はまるで二人を残した全てを取り払ってしまったかのようで、今にも頭上の曇雲は裂け、この眼前にだけ嫌味な程に美しい陽光が降り注ぐのではないかとさえ思わせる。
 まるで舞台装置の様に整った灰色の壇上で、ペンギンは少し息を呑んで言った。
 
 「             」
 「…………っ」
 
 劈くような雨脚はますます勢いを増し、強かに頬へ打ちつける。
 雨音の間に囁くような"もしも"を確かに聞いて、思わず息をつめたキラーにペンギンは微かな笑みを向けた。
 
 「その時が来たのなら、精々宜しく頼むよ」
 「…………お前は、狡い奴だ」
 「お前には言われたくないなあ」
 
 くすくすと笑う眦から一筋の雫が零れ落ちた。
 それが一体何処からやって来たものなのか、キラーに知る術は無い。
 きっと彼にも分からないのだろう。幾筋も張り付いた水の路を拭う事すらせずに、ペンギンは只空を仰いでいる。
 
 「俺は、海賊だ」
 「うん」
 「欲しいものは力ずくで奪うし、気に入らないものは力ずくで壊す」
 「うん」
 「そんな俺に、その願いは、酷だ」
 「手に届くことが全てと言う訳じゃない」
 「不可侵の領域の話をされても、それこそ手の出し様が無いだろう」
 「というか、別にお前に"願い"なんて託しちゃいない。俺はあくまで"仮定"の話をしただけだ」
 「…………」
 「別段、何一つ無理強いはしてないじゃないか」
 「…………」
 「…………違いない、って、言わないのか?」
 「…………お前は…………っ」
 
 人の胸中を十分に知った上で零された囈は余りに重くこの身にのしかかる。
 十分な水気を吸った衣服はそれだけで随分と負荷をかけているのに、宛らその上から更に鉛をぶちまけられた様に、四肢の全てを動かすのが酷く億劫に感じた。
 
 「雨は嫌いじゃなかったんだが」
 「…………」
 「次に会った時は、お前を泣かせてしまった雨なんて、嫌いになっていそうだ」
 「…………っ」
 
 何も言えないままで俯いたキラーの頬に、するりと冷たい手が伸びた。
 急いでその手を握り返す間も待ってはくれず、白く滑らかな指はぴしゃりと"モノ"が地面に叩き付けられる音を残して、静かに輪郭を滑り落ちる。
 
 笑みの残骸を浮かべた僅かな色彩が周囲のモノクロに馴染んで行くのを見て、何かが砕け散るような音がした。
 
 「…………やってやるさ」
 
 宛がった刃を引けば、既に役割を終えた表情が虚ろなままにごろりと転がる。
 ずしりと重い頭蓋を持ち上げ、そっと口付けて唇に血の紅を引けば、光の無い虹彩にさえ色が纏わるような気がした。
 
 何処までもその背を追いかけて、輪廻の淵で細い手首を折れるほどに掴み取ってやる。
 ぎりりと奥歯を噛み締める音は、御約束の様に空の割れ目に?き消えた。
 酷く澄んだ陽光が暗紅色の色水を綺麗に透かし、白のつなぎに鮮やかな赤が吸われて行くのは、嫌に胸が梳く光景だ。
 久方ぶりに拝んだ世界の色に止め処無く雫が零れるのを止めることは出来なかった。


 2012.03.05.