E.G.G

 自分としたことが、どうにも寝過してしまったらしい。
 目が覚めると既に船内は生活音に満ちていて、窓の外を仰ぐと浮上した船体の上から太陽の光が降り注いでいる。
 時計を見ると、普段の起床時間を大幅に上回っていて、寝坊とは行かずともそれなりの時刻を指す針にペンギンは慌てて飛び起きた。
 
 つなぎに袖を通し急いでドアを開けると、歯を磨きながらシャチが廊下を通りすぎる所だった。
 
 「あえ?おあよ、へんいん。ほうはほほいへ?」
 「ああ、おはよう……歯を磨きながら歩くなと、何度言ったらわかるんだシャチ。洗面所に戻れ」
 「あーい…………っう」
 「何だ?」
 
 注意を喚起してくるりと背を向けた途端、シャチが盛大に息を詰まらせた。
 怪訝な顔をして振り返ると、歯ブラシを口に差し込んだまま蹲って腹を抱えている。
 どうも、笑っているようだ。
 
 「…………どうした」
 「い、いあ?えうい、あいお……っう、あ」
 
 もごもごと未だ笑い声を洩らしながら急いで去っていくシャチの背を見送って、不可解な印象を拭えないまま食堂へと向かう道すがら、ワカメと鉢合わせる。
 
 「あれえ?今日は珍しく遅いんだね、ペンギン」
 「ああ。どうにも寝過してしまったらしい」
 「目覚ましの音、聞こえなかったの?」
 「そうらしいな」
 「ふうん?あ、朝食なら多分まだ残ってると思うよ。もう殆ど皆食べ終わってるけど」
 「そうか。ありがとう」
 「早く食べないと食器が洗えないって、バンさんに怒られるかも」
 「それは怖いな。手早く済ませて来るよ」
 「そうだね、そうした方が…………っ」
 
 擦れ違い様に彼が発した息の詰まる音に振り返ると、口元を押さえたまま此方の顔を凝視していた。
 
 「…………何だ」
 「いや、まあ…………ペンギンだって人間だもんねえ。そういうこともあるか」
 「だから何の話だと聞いている」
 「んー…………こっちの話、かな?」
 
 くすくすと笑いながら逃げる背を追う気力も無かったので、ひとつ息を吐きながら向き返る。
 食堂の扉を潜る前に、ベポの背に乗ったローに出くわした。
 
 「ペンギンか」
 「おはようございます、船長。ベポも」
 「ペンギンおはよー…………今起きたの?」
 「ああ、寝坊してしまったみたいだ」
 「ペンギンいっつも頑張ってるから、疲れてたんだね」
 「…………そうかもしれないな」
 「…………ペンギン」
 「はい?」
 
 ベポのあどけない感想に頬が緩むのを感じながら受け答えをしていると、不意にローが名を呼んだ。
 視線を上に上げると、まじまじと此方を見下ろす仕草が見て取れて、不可解を隠さずにペンギンは尋ねた。
 
 「何です?」
 「いや…………帽子、被ってねえんだなと思って」
 「あ」
 
 そういえば、いつもの重量感が無い。
 慌てて服を着たは良い物の、トレードマークの帽子は椅子の背に掛けたまま置き去りにして来てしまったらしい。
 
 「すみません。慌ててたんで忘れてきました」
 「いや、別に良いんだが…………なあベポ」
 「なあに?船長」
 「アレ、言うべきだと思うか?」
 「どれ?」
 「ほら、アレだ」
 「あ、あれ?」
 「そうそう」
 
 不躾に此方をさす指は然して気にもならないが、にやにやと笑うローの表情と、指示語の示す先を心得たベポの顔がどうにもひっかかる。
 
 「何ですか。俺の顔に何かついてるんですか?さっきから矢鱈と笑われるんですけど」
 「いや…………なあ?」
 「ふふ、そうだね」
 「…………一応鏡見て部屋は出ましたけど、何ですか。そんな可笑しい顔してますか、俺」
 「フフ、面白えから言わねえ」
 「何ですかそれ」
 「なあ、ベポ」
 「そうだね、キャプテン。ペンギンがこんな寝癖付けてる事なんて、あんまりないもんね?」
 「え?」
 「あっ」
 「あー…………」
 
 ベポが失言に気付いて口をぱっと覆った時、既に時は遅かった。
 折角手に入れた玩具を壊してしまったかのようにつまらなさげな様子のローは放っておいて、ペンギンは慌てて後頭部に手を宛がう。 流れている筈の髪は頑固な癖に遮られて、触るだけで分かるほど見事に跳ね上がっていた。
 
 「あーあ、折角面白かったのに。気付いちまったか」
 「ご、ごめんねキャプテン、おれのせいで」
 「ベポは悪かねえよ。悪いのは気付いちまったペンギンだ」
 「な、何で言ってくれなかったんですか!もっと早く!」
 「えー…………だって、なあ?」
 「そうだよペンギン。キャプテンに悪気はないんだよ」
 「いや悪気しかないでしょうあんた!」
 
 かああと、羞恥に顔が染まるのを感じる。
 幾ら癖は手の下に抑えたとはいえ、そのまま素直に背を向けて走り去ればまた馬鹿にされるのは目に見えているので、じりじりと向きは変えずに後ずさった。
 
 「き、今日、船長のおやつ抜きですからね!」
 「えー」
 「文句は言わせません!ああもう、シャチとワカメの分もナシだ!」
 「おれの分はー?」
 「ベポは良いよ!全責任は船長にある!」
 「ふうん?じゃあ俺は、お前が明け方に帰ってきたこと皆に言いふらして回ることにするからな」
 「?!」
 
 片手を頭にのせたままぴしりと固まったペンギンに、ローは再び嫌な笑いを取り戻して言った。
 
 「な、何を」
 「他の奴らは欺けても、俺は騙せねえぜ?ペンギン」
 「う」
 「大方シャワー浴びて、髪も乾かさずに寝たからそんな癖を作ったんだろう?寝付いたのが明け方じゃあ、寝坊もするよな?」
 「…………っ」
 「さて。悪いペンギン君は、何処へ夜遊びに行ってたのか、そこが問題だ」
 「何処に行ってたの、キャプテン?」
 「んー…………俺が思うに、キ」
 「あああああ!」
 
 きょとんとしたベポの耳元にローが口を寄せるのを見て、とっさに声を上げるとキッチンからバンが顔を出した。
 
 「どうした?ペンギン」
 「ば、バン」
 「…………頭にそんな寝癖付けて。まだまだガキだなあ、お前も」
 「そんなガキが朝がえ」
 「ああもう船長は黙ってて下さい!」
 「じゃあ、見張りまでの空き時間で買い出し頼むわ。酒切れたから、シャチと買いに行って来てくれ」
 「…………っ」
 「寝癖は直してからで良いからな。後、朝飯は食ってから行けよ?生活リズムが崩れちゃ元も子もねえ」
 「早く髪直して来い。ついでに、つなぎの襟もちゃんと留めてな。飯はちゃんと置いといてやるから」
 「す、すまない、バン…………船長、買い物のメモは後で貰いますからっ。言いふらさないでくださいよ…………!」
 
 羞恥に耐え難いと言わんばかりに、律儀に寝癖は抑えたままの少し可笑しな格好をしてペンギンは元来た廊下を駆け出す。
 その背を見送って、バンダナはぽつりと呟いた。
 
 「…………キャプテン」
 「何だ?」
 「あんた、気付いてたんだろ?」
 「寝癖か?」
 「それもあるが、俺が言ってるのは首の方だ」
 「…………何だ、お前も気付いてたのか」
 「全く、人が悪いな、あんたも」
 「フフ」
 
 ペンギンより背の低いシャチやワカメには見えなかっただろう位置、肌蹴たつなぎを上から覗きこむとはっきり見て取れる位置にあった紅い痕を、長身のバンは見逃すことが出来なかった。
 幸いにしてベポは気付かなかった(或いは気付いていてもその意味に理解が及ばなかった)ようだが、その背に乗る視点の高いローが気付かない訳はない。
 
 「まあ、襟を直すように言ったんだ。そのうち気付くだろ」
 「直すように言ったのは誰だ」
 「お前」
 「…………ペンギンも苦労するな…………」
 
 くつくつと笑いを殺せないでいるローに不思議な顔をするベポ。
 その変わらぬ日常と彼方走り去った人の心労を思って、バンダナは大きく溜息を吐いた。
 
 「…………卵のひとつでも、多めにつけてやるか」


 2012.03.16.