蝙蝠

 「お前は馬鹿じゃないだろう」
 
 窓から細く射し込む月の光が僅かに室内を照らす暗闇の中で、キラーはぽつりと呟いた。
 慣れ合いは柄じゃないとばかり、情事が終わればすぐに此方へ背を向けてしまう男に宛てるでもなく、ただ独白を零す。
 
 「欲を吐きだす相手ならそこいらの商売女を使えば良い。何も敵船の戦闘員に身体を預ける必要はない筈だ」
 「…………」
 「無論誘いを掛けたのは此方だし、お前が話に乗ることに不快を覚える訳じゃない」
 「…………」
 「ただ、解せないだけだ。お前にとって俺がそれ程のリスクを犯す価値を有している存在であるとは到底思えないし、寧ろ事が露見すれば肩身の狭い思いをするのは自明だろう。キッドとトラファルガーの仲は決して良くも無い。何の悪戯か度々に進路は重なるが、偶然すらも些細な小競り合いしか招かない。なのに何故、その渦中においてわざわざ身を危険に晒そうとするんだ」
 「…………」
 
 一向に返事の聞こえない闇で、キラーはふうと息を吐いた。
 そのまま仰向けに目を瞑って数分、こそりと布の擦れる気配がして、浅い眠りから引き上げられると同時に瞼を何かが掠める感触を得る。
 
 「…………」
 「…………強いて言うなら」
 
 薄い目蓋をなぞる指が睫毛に沿って曲線を描き、眼球を押す。
 その感触に黙っていると、窓から吹き込む冷たい風に乗せる様に呟かれた言葉が不意に耳朶を打った。
 
 「焦がれているのかもしれない」
 「…………」
 「薄氷の白しか知らない俺の目に、炎天の海を思わせるその浅葱は些か眩し過ぎるが」
 「…………」
 「一度気付いてしまっては、光に集まる蛾のように、理性でこの身体を引き剥がす事も出来ないもかもしれないな」
 
 瞼に触れる力が少し強くなる。
 そのまま指が減り込めば簡単にこの眼球は潰れるであろう、そんな危機感。
 けれど指はその直前まで力を込めた後、惜しむことも無く軽やかに離れて、頬の肌を滑った。
 
 唇の感触にぱちりと目を開けると、まるでそれを予期していたかのように黒耀の瞳は此方に向けられたまま、ただ暗の静謐を湛えている。
 
 「…………何で、お前はそんなに輝くのかな」
 「…………何が」
 「赤暗い血の色なんてまるで感じさせない色彩が酷く不思議なんだ。俺の目も、髪も、世の闇を吸い過ぎてもう光を跳ね返すことすら出来ないのに」
 「…………俺は」
 
 そっと手を伸ばして髪を撫でれば、慈しむように瞼が引き下ろされた。
 そのまま引き寄せてひとつ口付けを送ると、少し欲を映した瞳が物欲しそうに此方を見つめる。
 
 「殺しても殺してもこの目立ち過ぎる色を闇に泥ませることが出来ぬと藻掻いているというのに、随分と贅沢な悩みを口にするんだな」
 「…………在りもしない存在価値を真夏の太陽相手に語れるほど、薄氷は耐久を有してもいないからな」
 
 その言葉に少し瞠目して、くすりと笑みを零す。
 耳のピアスを掠める様に薄い耳朶へ舌を這わせば、抑えた吐息が漏れた。
 
 「簡単に溶かしてやる気も無いが」
 
 蝙蝠も啼かない静寂の中で聞こえる息遣いが、ただ鼓膜を裂く。


 2012.04.04.