今宵、君と晩餐を

 噎せ返るほどの血の匂い。
 口元に染みついた赤を隠す様に、キラーは引き上げていた仮面を下ろした。
 縦横無尽に散らばる物言わぬ骸は判を押したように皆赤く染まっていて、その法則の無い並びに先刻の乱舞が脳裏に蘇るも、千切れた四肢は最早在るべき場所に戻る術を知らない。
 片手に提げていた男の身体を無造作に放って、キラーはふう、とひとつ息を吐いた。
 
 仲間のいずれもが、この常軌を逸した自身の行動を知りはしない。
 否、キッドだけは知っていた。兎角正常とは言い難い嗜好を知って尚傍に置いてくれるのは、後にも先にも彼だけだろうとキラーは感じている。
 殺した相手の血を啜ることに快楽を覚えるだなんて、悪趣味にも程があると自分でも思うのだが、こればかりは如何にも止められない。
 記憶にない程に遠い過去、葡萄酒に似た赤色を口にしたその日から、脳の何処かが壊れてしまったのだろう。
 
 血の味を美味だと感じたことはない。寧ろその鉄錆のような異臭はキラーの胸を抉るばかりで、飲み下した量に関わらずその夜は堪え難い嘔吐感に苛まれる。
 えずいて、空の胃から透明な液体を吐き出して、それでも尚キラーは骸の首筋から血を貪る奇行を止めることが出来なかった。
 嚥下に付随する嘔吐なのか、嘔吐のための嚥下なのか、考えたこともあったが、幾ら頭で考えても湧きあがる衝動を抑えることなど出来ないのだからと、思考は随分と前に停止させたままだ。
 
 落ちた得物を拾いながらその刃に付いた赤を指の腹で拭い、口元に運ぶ。
 臭気に眉根を寄せながら舌に乗せたその味は、得体のしれない虚無感を埋めはしない。
 
 如何やらこの胸の空白を満たすのは、血液なら誰のものでも良いという訳でもないようだということに気付いたのは、つい最近のことだ。
 気付いたというより、そうなってしまったという方が正しいのかもしれない。
 以前は自身が手に掛けた相手のものならば、例えそれが幼子であろうとも、敵襲であろうとも、満たされる具合が異なることはなかった。
 しかし近日、幾人の息の根を止めその赤を頂いたところで、感じるのは形容しがたい嘔吐感とじわり増大する虚無ばかり。
 今日も今日とてわざわざ単身、キッドを狙って訪れた海賊狩り共を下したというのに、片手間の戦闘は徒労を生むに留まった。
 
 「……まあ、原因は分かってはいるんだが」
 「何が?」
 
 誰に聞かせるともなく口にした呟きは、しかし意外なほどに近くから聞こえた声に会話へと形を変える。
 
 「悪趣味だな、殺戮武人」
 
 目元は深く被った帽子に隠れ、かろうじて見える口元は読めない笑みを浮かべている。
 
 「人の血なんて美味いのか?」
 「疑問に思うなら、飲んでみれば良い」
 「丁重にお断りするよ」
 
 そう言うとペンギンは、徐に一つの骸を蹴り転がして、その血に塗れた懐から一冊の手帳を取り出した。
 
 「ハートの海賊団ともあろうものが骸漁りとは」
 「馬鹿にするな。そんな訳ないだろ」
 「じゃあ何だ」
 「船長のだよ。掏られたんだ」
 「トラファルガーが」
 「全く、困った人だよ。『俺から掏ろうなんざいい度胸だな』なんて言って。全く、取り返しに行くのは俺なのに」
 
 はあ、と溜息を吐きながらも愛おしそうに革表紙の血糊を拭うその横顔に、ぞくりとしたものを感じてキラーは息をつめた。
 まただ。先日の邂逅から姿を見かける度に、言葉を交わす度に、言いようのない何かが背を駆ける。
 それは例えるなら、初めて赤を口にした時に感じた高揚の様な、焦燥の様な。
 その白い首筋に刃を宛がって、傷から流れる血を舐めてみたいと、本能が疼く。
 
 しかしそれは超えてはいけない一線だと、今更に叫ぶ理性が邪魔をして、根が生えたように動かすことの出来ない身体がもどかしい。
 もしもそれを成してしまったならば、飲むために殺すのではないという僅かばかりの抵抗、人としての何かが瓦解してしまうから。
 漆黒の髪が擽る項、薄い皮膚の下に流れる赤はどれだけ美味なのだろうと、腹の底で囁く何かに必死で耳を塞ぐ。
 突如押し黙り、微動だとしなくなってしまったキラーに、ペンギンは少し怪訝な顔をした。
 
 「どうした、殺戮武人」
 
 たん、と地を蹴る音がして、キラーが顔を上げると、眼前すぐ傍に人影が降り立つ。
 思わず仰け反ると、不思議そうに煌めく一対の黒曜が鍔の影からちらりと覗いて、挑発的な色を見せた。
 
 「ひょっとして、俺の血を飲みたいとか?」
 「…………そんな訳、」
 「まあ、俺じゃお前には勝てないから、お前が本気でそう思うなら無駄な抵抗はしないけど」
 
 にやりと妖艶な笑みを浮かべたペンギンは、徐に指の腹を鋭利な犬歯で破り、竦んだままに立ち尽くすキラーの仮面を無造作に引き上げた。
 ふうん、そんな面してたのか、などと無感動に呟いた次の瞬間、唇をなぞる指の濡れた感触に戦慄する。
 意思を持って誰かに触れられたのは久々だ。
 冷め行かぬ生気を纏った熱が、鉄錆の香りを伴ってキラーの肌を嬲った。
 
 「何を」
 「みすみす殺されるのも嫌だからさ、今はそのくらいで勘弁しておいてくれよ」
 
 言うだけ言うと、ペンギンはひょいと後ろへ飛び退りこちらに背を向けた。
 
 「じゃあな。殺戮武人……殺戮武人って言いにくいな、キラーって呼んでいいか」
 「好きに、しろ」
 「そうするよ。またな、キラー」
 
 未だ追いつかない思考を一先ず放っておいて、見えなくなった姿から注意を払い無意識に唇を舐める。
 
 「…………ぐ、」
 
 内腑を抉る、せり上がる様な嘔吐感に不快を感じながら、灰に濁った空を見上げて大きく息を吐いた。
 頬に当たる細雨を煩わしく拭い、いっそ降り注ぐのが血の雨ならば、漸く見つけた唯一を唯一と信じることが出来たのに、と。
 塗りつけられた赤は、味は無論香りさえも、有象無象のそれと変わることはなさそうだった。



 2013.04.30.