夢現と沈みけり

 「もう体調は良いのか」
 「御蔭様で。世話掛けたな」
 「大したことでもない」
 
 かたんと隣に荷を置いて、一つ離れた椅子に腰を下ろす男に何ら変わった様子もない。
 
 「これ」
 「ああ、有難う」
 
 別段示し合わせた訳ではないのだが、どういう訳か行く先々の教室でこの知人と出くわすことに気付いたのは今学期の初め。
 無論己としてはそれを疎む云われも無く、気が向けば肩を並べて講義を傍聴する日々が続いていた。
 休講分のノートを補い合う関係にも随分と慣れたものだ。
 
 「出来るだけ早く返す」
 「何、それ程急ぎの都合も無いから。来週までに写し終えてくれればそれで構わない」
 「…………すまない」
 「お互い様だろう?」
 「ふふ」
 
 着信が入ったのは一昨日、即ち週初めの朝だった。
 どうにも身体が重いので今日は欠席する、酷く簡素な文章は常の如くであったが、どうにもその文尾に引っかかりを覚えた
 己が下宿先を訪ねたのが、その日の夕暮時。
 何も食べず只布団に横たわっていた熱い身体を無理矢理起こし、世話を焼いたのは随分と昔であるような気がする。
 
 「その、」
 「?」
 「世話、掛けた。本当に。すまない」
 「ああ…………俺がしたくてしたことだ。お前が気に病む必要はない」
 
 そう、俺の独断で。私利と私欲に基づいて。
 寧ろ眠りに沈むその唇に落とした物と秤にかければ、詰られこそすれ感謝の言葉を掛けられるなんて罪悪感を持て余すのも時間の問題だ。
 深く閉じられた瞼が偽りであったなら、この刹那喜んで爆死を図ろう。
 
 「なあ」
 「何だ」
 「その、お前が帰る時…………」
 「?」
 
 ちらりとこちらを見た黒耀の瞳が所在なさげに揺れているのを見て、一縷の可能性に酷く胸が掻き立てられた。
 
 「いや、何でもない」
 「言いたいことがあるならはっきり言えば良い」
 「否、本当に良いんだ…………きっと、夢だ」
 
 眉を寄せて悩まし気に吐かれる溜息から目が離せず、どうやら研究棟から少しばかり薬品群を持ち出す必要がありそうだと悟った正午までの数分間を、俺は後悔と僅かな期待に苛まれながら過ごす事にした。



 2011.09.18.