眠り姫

 涙は零さない。
 只安らかに眠るその横顔を見つめて、浅く息を吐いた。
 
 降りた瞼に二重のラインは深く、長い睫毛がその縁を飾取っている。
 薄皮を持ちあげればそこには宵闇の瞳があって、光を含むと微妙な紺碧を催すその深い色が、キラーは好きだった。
 少し襟足の長い髪も華奢な首筋に良く映えて、稲妻を思わせる二房の金も弄ぶに楽しい玩具だ。
 
 隙間の開いた窓から滑り込む爽やかな風が、そよそよとその柔らかな前髪を揺らす。
 時折深く、浅く繰り返される呼吸は君が今正に生きていることを知らしめていて。
 血色の無い肌に唯一命を感じさせるその温かな吐息が、君が今此処へ繋ぎ止められているという事実を雄弁に、しかし囁かに物語っていた。
 
 太陽の香りを戦がせる柔らかな日差しが、薄いカーテンの切れ目から射し込む。
 光の射す所だけが仄かに温まり、指先に通う血潮を感じさせる。
 滑らかな手をそっと握り、白いシーツに頬杖を突いたまま、キラーは目を閉じた。
 
 只管に鎖されたその瞼の裏に広がる景色が一体どんなものであるのか、知る術は無い。
 けれど少しでもその暗闇を分け合いたくて、一心に目を閉じても薄皮を透かして入る陽光が完全な闇を退けてしまう。
 少し紅い暗の空。
 
 不意に眦に涙が浮かび、それが生理的な物であることは自分が一番良く分かっているのだけれど、兎角慌てて拭い去った。
 君の傍で涙を見せる訳にはいかないから、薄い色の瞳を懸命に開いて堪える。
 ふと、遠くない日に君が流した透明な雫を思い出した。
 光に透けたそれは酷く綺麗で、只純粋な興味から涙の理由を質しても、君は微笑むだけで口を開こうとはしなかった。
 未だにその答えは分からないけれど、きっとそれは分かるべき物では無くて、そしてまた質すべき物でも無かったのだと気付いたのはつい先日のことだ。
 
 何も出来ない自分が酷く歯痒いけれど、同時にこの曖昧な距離を保つことが何よりも大切な気さえして、緩んだ力を元に正しもう一度優しくその手を包む。
 もう随分と長い間その笑みを見ていない。
 はにかむ様な皮肉気な、何とも形容しがたいその綺麗な微笑に救われたことは数知れず、眠りに身を委ねて尚脳裏にちらつくその影は時計の螺子を撒くかのように、温かな光を齎してくれた。
 昏々と浅瀬を揺蕩うその穏やかな顔に、不器用な頬笑みを投げる。
 少しでも君が夢の橋を渡る手助けになれば良い等と、願った訳ではないけれど。
 
 「ペンギン」
 
 静かに呼びかけても、木目細かな肌の何処にも筋が刻まれることも無い。
 それでも、
 
 「俺は、此処にいる」
 
 柔らかに呟かずにはいられなくて、酷く優しい目をしてキラーは唱えた。
 
 「愛してる」
 
 幾度重ねたかもしれない、無粋な愛の科白。
 何の変哲も、何の捻りも無いその朴訥そのものが、この複雑怪奇な熱情を表すには相応しいのだと、何故か知っているから。
 何もしてあげられないけれど、何度でも、幾度でも、世界が閉じるその時まで口の端に刻もう。
 
 「愛してる」
 
 言の葉を零す度に目の淵から溢れそうになる何かを堪えて、繰り返す。
 君が好きだったこの言葉を、君が好きでは無かったこの雫と共に落としてはいけないと思うから。
 
 「愛してるよ」
 
 生まれ変わってもまた逢いたい、等と言うけれど、生まれ変わりなんて先の見えない未来に幸福を託したくはない。
 出逢えた奇跡、等という軒並みな科白も言いたくは無いけれど、今此処で君とこうして重ねる時に勝る物は無いと感じるのもまた事実だから。
 
 繰り返す度に零れた君の喜ぶ顔を、心に抱く。
 もう一度その声を聞きたいなんて、少しでも良いから君の声が聞きたいなんて、思っている訳でもないけれど。
 如何してか、言わずには居られなかった。
 
 
 風が凪ぐ。
 揺れていたカーテンが不意にその動きを失ってだらりと垂れ下がるのを、見るとは無しに見ていた。
 
 「ん…………」
 
 やがてゆっくりと、その重い瞼が持ち上がる。
 久々に姿を見せた黒耀の星は、暫し朧気に宙を彷徨った後、浅葱の光を捉えた。
 
 「おはよう」
 
 只その声が鼓膜を震わせるのを感じるだけで、白に塗れた世界に君の色を描くことは出来なかった。



 image by Acid Black Cherry
 2011.11.01.