high stool

 「それ」
 「え?」
 
 何処か面白くないとでも言いたげな声色で呼びとめられて、フライパンを片手にペンギンはカウンターの向こうを見遣った。
 此方を背に置かれたソファに座る男はてっきり正面のテレビ画面を見つめているものだと思っていたのだが、どうやら違ったようだ。
 ぶすりとした表情で此方を覗く様は、癖のある金髪も手伝って宛ら不貞腐れた猫のようにも見える。
 
 「何」
 「指輪」
 「ゆびわ?」
 「指輪。この間贈っただろう」
 「あー…………ああ、貰った」
 
 するりと柄を握る指を撫でる。
 そこには何の装飾品もつけられてはいない、コンプレックスすら抱きつつある細く白い肌があるだけだった。
 
 「してくれないのか」
 「あー…………」
 「…………気に入らなかったのか?喜んでくれたんだとばかり思っていたんだが」
 「も、勿論嬉しかったし、気に入ってるさ。大事にしてる」
 
 記念日を気にするなんて女々しい事をするペンギンではなかったが、それでも大切なその日に恋人から贈られたアクセサリに抱く幸福感は世の女子が感じるものとそう相違はなく。
 それがまたペアリングなんて洒落た、ある意味で言えば酷く在り来たりなものだったので、嬉しさは以前に貰ったピアスの比で無かった。
 当然ピアスに不満があったと言う訳ではない。
 
 「…………じゃあ、何故」
 「…………」
 
 問答を繰り返しているうちに少し焦げ付いてしまったフライパン。
 コンロの火を弱めるふりをして暫し困惑していると、いつの間にか隣に来ていたキラーに左手を奪われた。
 
 「…………重かったか、やはり」
 「そ、そんなことはない!お前と揃いの指輪を貰うなんて思っても見なかったし、物心ついてから一番嬉しい贈り物だと自負してるよ」
 「じゃあ、」
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 「…………ペンギン?」
 「…………か」
 「え?」
 
 優しく、それでいて沈黙を許さない呼びかけに、観念したようにペンギンは言った。
 
 「…………恥ずかしいじゃないか…………」
 「…………は?」
 「だって、左手の薬指に指輪なんて、恋人がいると主張して回っているようなものだろう。正直、羞恥以外何も覚えない」
 
 貰った翌日にはきちんと嵌めて行ったのだ。
 しかしその日は一日、ちらちらと、あるいはあからさまに指に向けられる視線や、囁かれる言葉、からかいの科白に気が気では無く、気も漫ろで授業を終えてしまった。
 
 「…………別に、俺と付き合っているとは分からないだろう?指輪だけでは」
 「そういうことじゃないんだよ…………」
 
 別段、恋人が男であることを恥じている訳ではない。
 流石に公衆の面前でそれらしい行いをすることは避けるが、それでも二人並んで街中を歩くことにも、何処からか出回った情報で関係が知られることにも、抵抗は感じない。
 彼と恋愛関係にあることに後ろ暗さはないからだ。
 
 「ローやシャチはにやにやにやにやと面倒なことばかり訊いて来るし、そうでなくとも他の奴らには好奇の目で見られる」
 
 普段から人の視線を集めるキラーには分からない感覚だろう。
 靡く金糸も、前髪の下に隠れた秀麗な造作も人を惹きつけてやまないし、それが無くともバランスの取れた痩身は歩くだけで注目を集める。
 平素より人から見られ慣れている彼には、きっと思いもよらない羞恥の感じ所なのだとは思う。
 それゆえに、この悩みをどう理解させれば良いのか分からない。
 
 「うー…………」
 「…………嫌なのか、やっぱり」
 「だ、だから違うって…………そのー…………」
 
 続ける言い訳に困窮していると、哀しげな眼に悪戯の光が映った。
 
 「?キラー…………っ」
 
 ちゅ、と音を立てて指に柔らかい唇が触れた。
 そんな気は毛頭ないのに、過敏に育された触覚がぞくりとした震えを全身に伝える。
 
 目の前で、これ見よがしと侍らされる、濡れた舌。
 水気を帯びた音と共に丹念に舐められた薬指の先端が口内に招かれて、声が漏れそうになるのを必死で押さえた。
 
 「ん…………っ、あ」
 
 高が指一本で全てを支配されそうになることを恐れる理性と、それすらも手放したくなる程に快楽を求める感情。
 狭間で揺れ動く年上の恋人を伏せた眼でちらりと見て、その酷く官能的な表情に暗い炎が身体の奥でちらつくのを感じる。
 
 「キ…………らぁ」
 「こんなことをするのは許してくれるのに、指輪のひとつも付けてはくれないのか」
 「だ、から…………違…………っあ」
 
 カリ、と指先に歯を立てる。
 しとどに濡れた指先に紅が混ざる味がして、一度音を立てて吸い上げ口を離すと、僅かに鮮血が滲んでいるのを見た。
 
 「何処」
 「え?」
 「何処にあるんだ、指輪」
 「え…………っと」
 
 未だ冷めきらない熱に頬を染めながら、ペンギンが空いた手でごそごそと襟首を探る。
 持ち上げられたチェーンにシルバーのリングが光るのを見て、意地悪く質問を重ねた自分に少し後悔を覚えた。
 首の後ろに回った留め具を弄り、外れたチェーンからトップを抜き取る。
 
 いつの日かと同じように、手を取り薬指に嵌めてやると、先程とは違った色合いに染められた頬を持て余して、ペンギンが言った。
 
 「…………有難う」
 「お前が喜んでくれただけで嬉しいと言いたいところだが…………つけていてくれないと意味がない。牽制にならないからな」
 「?」
 「ああ、それか…………どうしても指輪を付けるのが嫌だと言うなら」
 
 言葉の意味を解せずきょとんとしたままのペンギンを愛おしく思いながら、ふと首を持ちあげた誘惑に耐え切れずキラーは少し屈みこんだ。
 目の前に来た白い首筋にやわりと歯を立てると、予期せぬ刺激に押さえた声で喘ぎが漏れる。
 思わずと言った体で傷口に手が添えられるのをひらりと躱し、口の端を持ちあげるような笑みを作って行った。
 
 「毎日それを刻ませてくれるなら、指輪はしていかなくて良い」
 
 余程注意してストールか何かを巻かなければ容易に見えてしまう位置につけられたキスマークに、ペンギンは何も言えず只口をぱくぱくと開閉させる。
 
 「…………謹んでさせて頂きます。毎日」
 「それは良かった」
 
 諦めたような、それでいて何処か嬉しげな声音で言う恋人に、キラーは満足そうな表情を作ってその額に一つ口付けを落とした。
 
 「ところでペンギン」
 「…………未だ何かあるのか」
 「焦げてないか、それ」
 「!お前、気付いてたんならさっさと火止めろよ…………!」
 
 慌ててコンロに齧りつくその横顔に先程の熱の余韻は既になく。
 少し惜しい気持ちになりながら左手の指輪を弄びながら、向かいのスツールに腰を掛け暫しその主夫姿を堪能するに決め込んだ。



 2012.01.10.