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 生まれた時から、首に大きな疵がある。
 医者も母親も、痣とは違う切り傷の治った様な、鈍く引き攣れた痕の存在には首を傾げていたが、自分としては別段その存在を厭うたことはなかった。
 丁度頸動脈の上を横断するように刻まれた疵は幼心に酷く不思議だったが、なぜか鏡に映してそれを見る度落ち着いた心持になったもので。
 気付けば不安なときや手持無沙汰な時、擦るように疵跡を触る癖さえついてしまったようだ。
 事情を知らない初対面の人間は、先ずこの疵を見て驚いた顔をする。
 けれどその反応にも、もう随分と慣れた。
 
 ただ時折、走る筈の無い鋭い痛みをそこに感じた時だけ、言いようの無い曖昧な気分に襲われて、この身を両腕で宥めるように覆わずにはいられなくなる。
 
 
 「しっかし、いつ見ても痛そうだなあ、その傷」
 「痛い訳ないだろう。生まれた時からあるんだから」
 「見目に痛そうなのと実際に痛いのは違うの」
 「お前の見解なんて知るか」
 「うわ、酷っ!俺はペンギンのこと心配して言ってるのに」
 「だから、心配される謂れもないと言っている」
 「酷えなあ、折角の友人の心配を無碍にするなんて」
 「心配してくれと頼んだ覚えは無いがな」
 
 むすりと膨れるシャチと並んで歩きながら、もう幾度繰り返したとも思われる言葉を遣り投げる。
 派手な色のキャスケット帽は、派手な色の髪と何故か良く合っていて、世間広しと言えどこれ程に奇抜な帽子を被りこなせるのはこいつしかいないだろうとペンギンは密かに思っている。
 
 「なーペンギーン」
 「何だ」
 「そんなにその傷の事言われるのが嫌ならさ、ストール巻くとかハイネックのシャツ着るとかすりゃいいじゃん。Vネックのシャツなんて着るから余計に目立つんだぞ?」
 「それは、そうだが」
 
 別段この疵に関してコンプレックスを持っている訳でもない。
 堂々と晒して歩いているとこうしてとやかく言われるので少し面倒ではあるのだが、かといって隠すのも何か違う様な気がして。
 寧ろ少し長めの髪に隠れるからという言い訳にもならない言い訳を誰にでもなくすることで、いつからか隠すという行為自体を極力避けている自分がいることに気が付いていた。
 何故か分からないが、見えない所に仕舞っておいてはいけない、そんな気がするのだ。
 
 ああだこうだと言い合いながら夕日に長い影を伸ばしていると、突如背後からとすりと、鞄か何かを取り落とすような音が聞こえた。
 振り返るとそこにはやはり人影が有って、けれどそれは知らない人で、でも黄昏の橙を映して暖色を醸す金の髪は酷く綺麗で。
 
 「…………ペンギン…………?」
 「え…………」
 
 落ちた荷物もそのままにただ呆然と立ち尽くす人を見るや否や、脳髄に痺れるような刺激が走って、疵と共に抱えていた空虚が埋まる心地がした。
 
 悲鳴、怒号、波の音。
 そのなかで一際響いた微かな声が、耳朶に蘇る。
 泣きそうな顔で刃を振り抜くその一挙一動が止まったように視界には映って。
 後ろで誰かが自分の名を叫ぶのが、聞こえた。
 
 「キ…………ラー…………?」
 「…………っ」
 
 知る筈もない人の名前が口から零れると同時に、視界が霞む。
 
 「え、あれ…………?」
 
 突如として流れ出した涙を必死になって拭う内に、身体が温かい腕に包まれるのを感じる。
 
 「ペンギン…………!」
 
 悲鳴にも似た声を振り絞る身体は無様にも震えていて、何が何だか未だ分からないままに、それでも何か大切な物をその様子から感じ取って。
 
 その親指が頸動脈を横断するように綺麗な線を描いた時、ああそうか、この疵は彼にこの身を見つけて貰う為のしるしだったのかと、不意に理解した。
 
 「…………ただいま」
 
 精一杯の笑みを作って言うと、金糸の男は泣きそうな顔をする。
 回された両の腕は、痛みを宥める抱擁にも似ていた。



 2012.02.02.