ALCARD

 「一部屋しかご用意できなくてすみませんね」
 「いや、此方こそ夜分遅くに招き入れて頂いてすまないな」
 「良いんですよ…………旅の方でしょう?泊る所も無ければ先もままならないわ…………此処にお名前を書いて下さる?」
 「本当に感謝している…………これで良いか」
 「アルカードさん?あまり聞かないお名前ね」
 「ああ。此処からはかなり遠い地方の出身だから」
 「そう。じゃあ、部屋は三階の一番奥です。これが鍵ね」
 「有難う」
 「案内は無しでも良いかしら?」
 「勿論。そこまでの手間は掛けさせられないからな」
 「有難いわ。近頃は階段を上るのもしんどくて…………お連れさんは、大丈夫?体調が悪そうだけれど」
 「ああ…………気を使わせてすまない。大丈夫だ」
 「そう?じゃあ、何かあったら起こして頂戴ね。まあ…………今晩はどうにも若いお客さんのお泊りが多いから、トラブルもありそうだしどうせ一晩中眠れはしないわ」
 「有難う。そちらも大変だな」
 「いいえ、仕事ですもの」
 「退室は明日の夕方になると思うが、良いか」
 「構いませんよ。特に時間の指定は設けていないわ」
 
 白髪の老女との会話もそこそこに、板張りの軋む階段を上る。
 彼女の言う通り、階上からはひっきりなしに人の話す声や物のぶつかる音が聞こえていた。
 ふらふらと足取りの覚束無い相方を先に行かせて、窓から見える月を見上げる。
 
 「疲れた…………」
 
 部屋に入るや否や一つしかない簡素なベッドにばたりと倒れ込むペンギンを横目に、粗末な鍵を掛ける。
 さして役にも立たない気はするが、まあ、無いよりはましだろう。
 
 「お前がどうしてそんなに疲れているのか、教えてやろうか」
 「…………」
 「血を呑まないからだ、血を」
 
 ペンギンは未だ、人間の身体から直接に血を摂取することを頑なに拒否する。
 キラーの根気良い説得と、生命の限界に負けて硝子瓶から血液自体を嚥下することには慣れたようだが、吸血行為そのものにはやはり抵抗があるらしい。
 しかし瓶に取っておける血液の量など高が知れているし、鮮度にも欠けるから無論直接飲むことと比べてその効力は落ちるのだ。
 いつまでもこんなことを続けさせる訳にはいかないものの、どうにも強情なのがペンギンという男だった。
 
 「吸血行為さえ受け入れることが出来れば、歩くだけでそれ程に消耗することも無くなるんだ」
 「分かってる…………」
 「…………」
 「…………」
 「…………今のお前には、何を言っても無駄だな」
 
 諦めたように溜息をついて、倒れたペンギンの横にキラーは座り込む。
 その背をちらりと見て、ペンギンはぽつりと言った。
 
 「…………お前こそ、大丈夫なのか」
 「何が」
 「俺に付き合って、もう幾日も血を飲んでいないんだろう」
 「…………お前と違って、俺はそうヤワじゃないからな」
 「嘘をつくな」
 
 怠い身体を起こして、キラーの顔を覗きこむ。
 幾日も掛けて色を失って来たそれは、ペンギンのそれと比にこそなるものの既に蒼白と言って差し支えないものだった。
 只でさえ白い肌は、今や色というものを失っている。
 
 「俺の心配をする前に、自分の心配をしろ」
 「…………お前が血を飲んでくれれば、俺も飲めるんだがな」
 「…………努力はしてるよ」
 「…………俺は、お前を守ると決めたんだ。自分だけが生き延びても、意味が無い」
 「だから、俺が人から血を飲むまで、お前も飲まないと?」
 「ああ」
 「馬鹿。そんな身体で一体どうやって俺を守るって言うんだ」
 「…………」
 
 ぴしゃりと言ってのけると、キラーは困ったように口を噤んでしまう。
 はあ、とペンギンは一つ息を吐き出して、徐に胸元の釦を外した。
 
 「…………何をしてる」
 「…………俺は未だ、完全に吸血鬼になった訳じゃない。人の血と、吸血鬼の血が混ざってる」
 「だから、何だ」
 「俺の血を飲めば、少しは渇きも癒えるんじゃないのか」
 「…………馬鹿か。そんな瀕死の身体から血も何も貰えたものじゃない」
 「俺はそんなことを聞いてるんじゃないんだよ、キラー」
 
 首筋を肌蹴て、睨めつけるような視線を物ともせず強く言い放つと、折れた様にキラーは言った。
 
 「…………否定は、しない」
 「じゃあ」
 「だが断る」
 「何で」
 「さっきも言っただろう。お前、そんな身体状況で自分の血まで失ったら」
 「すぐに死ぬ訳でもないだろう?お前まで倒れたら、それこそ俺は生きていけなくなる」
 「…………」
 
 ベッドから降りて、向き合う様にしてペンギンは床に膝を突いた。
 それでも金糸の男は躊躇う様な素振りを見せて、眼を反らす。
 
 「…………」
 「…………」
 「…………強情者」
 
 尖り始めた刃を自分の唇に突き立てると、皮膚は意図も容易く破れる。
 人間のそれとは少し違う、苦みのある血の味に眉を潜めると、堅い声が沈黙を破った。
 
 「…………何を」
 「こうでもすりゃ、飲んでくれるのかなと思っただけだ」
 
 言うなり、怪訝そうな顔をするその唇へ、己のそれを重ねる。
 驚くようなその顔に少し満足を覚えて、一層口付けを深めるとやがて舌を伝って流れ込んだ自分の血が、相手の喉に嚥下されるのが見えた。
 半吸血鬼の血液を僅かに口にした所で何が変わるものでもないとは思うが、何も無いよりはマシだろうと思う事にする。
 強くなり始めた治癒能力に傷が塞がりつつあるのも感じて、一先ず唇を放そうとペンギンは身を引いた。
 
 「っ、キ」
 「…………お前が悪いんだ」
 
 しかしそれは叶わず、掴まれた腕が強い力で引き戻されて。
 接吻が、深まる。
 歯列を割った舌は容易く口内を蹂躙して、吸われた舌に脳髄が痺れる。
 唾液が零れ落ちて、カッターの襟と鎖骨を濡らした。
 
 「ふ…………んっ…………ぁ」
 
 長い拘束から解放されて漸く酸素を取り入れた脳が動き出す前に、抱き上げられた身体は乱暴にベッドに投げ出された。
 覆い被さる影を見て二の句も告げないままに驚くペンギンを静かに見下ろすキラーの瞳は、平素の澄んだ浅葱を忘れ、妖しい紅に煌いていた。
 
 「お前は知らないだろう。お前の血が、俺にとってどれだけ蟲惑的な味をしているか。お前の香りが、どれだけ俺の眼を眩ませるか。お前の肌が、どれだけ俺の欲を誘って止まないか」
 「キ、ラー…………?」
 「俺はずっと耐えてきた。無防備な寝顔を晒すお前の喉に牙を突き立てる欲を必死で抑えて。非常事態とはいえお前の血を吸わなければならなかった先日でさえ、そこにお前の血を飲みたいという私欲が有ったことを否定はしない。分かるか?」
 「…………」
 「わざわざ襟元を肌蹴て、自分の血を吸えだと?冗談じゃない。そんなことをしたら、俺は」
 
 止まらなくなる。
 
 「血を吸うだけじゃ足りない。その白い肌に紅い華を散らして、声が嗄れるまで啼かせて、滅茶苦茶にしたいと思う。体力も精神力も削られている今、そんな風に無防備な首筋を晒されて、正気で居られる自信は無いんだ。それなのにお前ときたら…………」
 
 深緋の瞳の奥に暗い炎が宿っているのを見て、背にぞくりとしたものが走るのを感じる。
 けれど同時にその顔には今まで見たことも無い程の苦悶が浮かんでいて、歪んだ顔に彼が今果てしない葛藤と戦っていることが分かった。
 
 「キ」
 「…………馬鹿な真似はよして、早く休め。俺が止まれなくなる前にな」
 「…………っ」
 
 静かな部屋に、ぎりりとその音が響くほど強く奥歯を噛み締めたキラーが言う。
 茫然としたままのペンギンを置き去りに、起こした身は未だその紅い瞳に情欲と渇きを映していた。
 
 「…………何処、行くんだ」
 「お前の居ない何処かだ。少し、頭を冷やしてくる」
 「…………俺は」
 「…………」
 「俺は、お前になら何をされても良いんだ」
 「…………」
 「お前こそ知らないだろう?お前に救われて、お前と同じ時間を共有することを許される身体になったと知った時の俺の喜びを。お前はただ一方的に、俺をこんな体にした事を悔いているみたいな言い方をする。何時俺がお前の行動を否定した?感謝こそすれ、厭う理由なんて何処にも無いじゃないか。俺は、こんなにもお前のことが好きなのに」
 「…………」
 「気付いていないとは言わせない。俺はお前が好きだ。この身体になる、ずっと前から」
 「…………俺、は」
 「飲めよ。俺の血でお前が生きるなら、幾らだってくれてやる。抱きたいなら抱けばいい。啼かせてみろよ。俺は多分、」
 
 何処かで、そうなることを望んでいる。
 
 「俺にはお前が必要なんだ」
 「…………」
 「なあ、キラー」
 「…………先程も言ったが、手加減は出来ないぞ。おそらく」
 「…………覚悟の上だ」
 
 余裕を持った笑みを見せつけてやると、紅い眼に瞬間憐れむ様な不思議な色が射した。
 けれどそれはほんの僅かな時で、深緋の瞳は炎の色を強くする。
 
 触れるだけの接吻、入り込んだ舌に唾液が混ざりあい、滑るように唇は首筋へと降りる。
 柔らかに触れた牙の感触が、一瞬の躊躇いを見せた後に肌へと深く潜り込むのを感じて、ペンギンは息を詰めた。
 
 「ぅ…………あ、あっ」
 
 強い痛みと、同時に襲い来る眩む様な快楽に抑えきれない喘ぎが漏れると、キラーは貪欲に黒耀の瞳を見た。
 咬み付いた時の痛みを和らげるために、吸血鬼はその牙が相手の皮膚を破る時、麻酔の様な効能を身へ効かせることが出来る。
 初めて味わうその感覚に涙が滲み、目の前が真っ赤になった。
 
 「キ…………ラ、ぁ」
 
 乞う様に名を呼ばれ、その宙を彷徨う潤んだ瞳に、否応なく熱が高まる。
 ずぶりと牙を抜いた時に漏れた嬌声は病的にも耳に馴染んで、その掠れた声が喘ぎ啼く音を聴覚へ刻むことを、赤い欲が望む。
 丹念に傷口を舐める舌のぬめりが薄い肌に広がり、善がるような表情に身体の奥の熱をも同時に煽って行くのを感じた。
 
 「ペンギン…………」
 
 月明かりに見えた口の周りを真っ赤に染めるその姿は、輝くプラチナブロンドの髪と相まって酷く美しく、ペンギンの目に映る。
 その口が己の名を呼ぶのを聞いて、酷く満ち足りた気分になった。
 
 「すまない」
 「ん…………」
 
 渇いた甘い声で紡がれる謝罪を鼓膜に招き、浮かされた様な顔で頷いた。
 再び落ちた口付けと肌を探るひやりとした手が、闇を深く塗り込めて行く。



 2012.02.06.