Good morning, my dear.

 雨の音が煩くて、眼が覚めた。
 暗い部屋に響くのは雨粒が硝子窓を打つ音だけで、あらゆる音の掻き消された闇は酷く凍えている。
 
 暖房のタイマーが切れた室内は嫌に寒い。
 ぞくりとしたものが背筋を駆け上がって、ひとつ震えてからペンギンは冬物の布団を肩まで引き上げた。
 しかし羽毛の軽さが不安感を打ち消す効果を齎すことは一向に無く、ともすればその存在感さえ曖昧にしてしまう中途半端な重量は、心の隙を広げこそすれ埋めてはくれなかった。
 
 「…………」
 
 そろりと枕元のチェストに手をのばすと、思いのほか近くに置かれていた携帯電話が指先に当たってずるりと床へ落ちた。
 鎖を模ったストラップがじゃらりと鳴り、がつんと音を立てて落ちた電話はフローリングの上をを滑ってベッドの下へ入り込んだ筈なのに、そんな些細な物音でさえ激しい雨音に紛れ消えてしまう。
 電燈のスイッチは部屋の扉のすぐ隣。到底手を伸ばしただけで届く距離ではない…………壁掛け時計も見えない今、時間を確認する術すら失ってしまった。
 水の音だけが、鼓膜を蹂躙する。
 
 「…………っ」
 
 胸中を無為に不安が支配して、居てもたっても居られなくなる。
 そろりとベッドから足を降ろすと、ひやりとした床の冷たさが瞬く間に全身を駆け巡って、尋常でない寒気がした。
 
 きい、と軋んで扉が開く。
 リビングを挟んだ向こう側に、もうひとつの扉。
 自分の部屋へ続くものと同じつくりのそれの前に立って、暫し躊躇する。
 けれどその間にも雨脚はどんどん強くなり、カーテンの向こうで排水溝に飲まれ切れなかった雨水がコンクリートの床をしとどに濡らしているのが容易に思い描けた。

 不意に、空が光った。

 カーテンレールの隙間から漏れた強い光にびくりと肩を震わせると、次の瞬間雨音をも砕く轟音が響く。
 咄嗟に耳を塞いで蹲ったペンギンの前で、ドアが薄く開いた。
 
 「…………!」
 「…………大丈夫か?」
 
 張りつめた様な顔で見上げる顔を見て、キラーは自分の予想が当たったことに大きな安堵と少しの苛立ちを感じた。
 
 雨が降ると、ペンギンは情緒の安定を失う。
 普段が普段なだけにその落ち着いた態度が崩れることは滅多にないのだが、何故か彼は、雨の音に対して異常な程の不安を見せるのだ。特に、明かりも無い暗闇の中では。
 
 原因を尋ねたことは無い。
 生来の物なのか、後付けのものなのかすらも知らない。
 しかし自分がそれを知る必要は無いとキラーは考えている。
 もしも必要になったとき、きっとペンギンから話してくれるに違いないから。
 雨の日はただその肩を抱いて、轟く雷鳴をやり過ごす。
 
 「すまない。もっと早く気付くべきだった…………こうなることは分かっていた筈なのに」
 「…………ごめん」
 
 しゃがみ込んだままでは冷えるだろうと一先ずその身体を立たせると、薄闇にも分かる程度に泣きそうな顔をしたペンギンはキラーの首に縋りついた。
 情けないほどに震える肩を宥める様に撫でてやると、少し落ち着いたのか過呼吸気味の息遣いも治まりを見せる。
 
 「まだ夜明けまでは遠い。もうひと眠りしたらどうだ」
 「ん…………」
 
 労る様に言うと、一応肯定の色を見せはするものの、ペンギンは回した腕を解こうとはしなかった。
 
 「…………部屋、戻れるか?」
 「…………」
 「…………添い寝で良いなら、してやるが」
 「…………ごめん」
 「謝る必要は無い。俺がしたくてしているんだから」
 「…………ごめん、本当に」
 「…………全く」
 
 甘え方を知らない彼は壊れたラジオの様に謝罪の言葉ばかりを零す。
 仕様の無い子供のようなその様にどうしようもなく愛しさが込み上げて、キラーはその手を引いたまま自室の扉を閉めた。
 主を失って尚、シーツの上に敷かれた布団は温かさを残している。
 並んで横になり、未だ小刻みに震える彼を柔らかに掻き抱いた。
 温もりを分け合ううちに胸元を掴む手の力がするりと抜けるのを感じて、漸く一息をつく。
 
 明日の朝にはこの豪雨も止んで、ひょっとすると虹も架かるかもしれない。
 朝露に濡れる空を仰いで、とびきりの笑顔で挨拶をしよう。



 2012.02.07.