一時、停止!

 同室の青年などは、「そりゃあ、教官が美人のねーちゃんだったら言う事ねえよな」なんて言って笑っていたが、正直そんなことはどうでも良い。
 自分は此処に遊びに来ている訳ではなく、ただ確固とした目的を以て否応なしに繋ぎとめられているだけであって。
 そりゃあ、楽しいに越したことは無いが、高々二週間と少しの合宿。
 最重要事項は期間内に試験に受かって、運転免許を取得することだ。
 
 赤髪を逆立てた強面の男はキッドと言った。
 入寮日を同じくし、またツインの寮室を共に使用することになった彼とはすぐに親しくなったものの、彼の快楽主義には少し溜息が出る。
 要領が良いからきっと最後には何とかしてしまうのだろうと思えるが、先立っての発言と言いその態度は少し軽すぎる様な気がするのだ。
 重要なのは性別とか容姿とか、性格とかそういう物では無くて、的確な指導力こそだろう。
 
 と、思っていたつい先程までの自分の甘さに凄まじく鋭い突っ込みを入れたいのが現心情なのであるが。
 
 
 「82号車に乗るのは君か?」
 
 初実車の担当は、痩身の青年だった。
 未だ若そうな、黒髪に金のメッシュを入れたその容姿はお世辞にも硬派な教官とは言えなかったが、物腰の柔らかさに反してその表情は無のまま動くことは無い。
 
 「は、はい」
 「そう。じゃあ一時間よろしく。教習原簿出してくれる?」
 
 言われるがままに、決して映りの良くない写真が貼られた厚紙を手渡す。
 先細りの指が綺麗だと、ふと思ってしまった自分に絶句してから数十分。
 
 「そう…………そこのカーブはそれ程強くないから、ハンドルはゆっくりでいい…………もう少し回しても良いぞ」
 「は、はい」
 
 狭い車内に二人と言うのがこれ程堪えるとは思わなかった。
 決して強くは無いが緩やかに香るコロンと低すぎないアルトの声がすぐ横から感じられるこの空間を一度意識し始めてから、運転なんてものには全く集中できなくなっている。
 
 教習所の実車という形式上においてこそ、自動車に乗車するのは初めての経験だが、流石に二十歳ともなれば地元で一度や二度に限らず、友人とふざけて車を動かしたことくらい、ある。
 キラーは犯罪歴こそ無いものの、決して型を全く破らない凝り固まった謹厳実直な青年という訳でもない。
 だから別段そこまで集中しなくても車などは転がせてしまうし、正直エンジンの掛け方やシートの位置調整なんて初めに言いだされた時には、精神が辟易の頂点に達した。
 
 しかし今そんなことはどうでも良い。
 問題は隣に座る青年との距離感だ。
 平素なら速くも無い鼓動は今や雨に濡れるフロントガラスを往来するワイパーと同じスピードで脈を打って、ともすれば髪に隠れた耳朶の赤さを悟られないかが只管に心配だった。
 
 「うん…………アクセルの踏み方もまあまあだな。初心者にしては上出来だ」
 「あ、有難うございます」
 「そこのカーブは少しきついから、多めにハンドルを回して…………そう、道なりに車体が平行になったら、元の位置に戻して」
 
 それなりに慣れた自分の運転技術をすれば、青年の発言は正に邪魔そのものでしかない。
 しかし彼の声帯で言葉が発されるだけで、まるでそれらは意思を以てキラーの肢体を拘束するかのように響くのだ。
 意識が進路方向へ上手く向かず、気付けばその一挙一動に向けられてしまうのを阻むことが出来なかった。
 
 俯く度に揺れる細い髪と、原簿に何かを書き付ける際の指の動き。
 幾度も同じような教習を繰り返しているからだろうか、硝子越しに先を見る黒の瞳は少し憂いている様で、雨露の光を反射したその色は濡れた黒曜石の様だ。
 
 「っ、止まって!」
 
 はっとしたようにその声の鋭さに気付いて、慌ててブレーキを踏む。
 
 「ハンドル切りすぎだ。左前が脱輪しかけてる。余り急いでハンドルを回すと上手く方向転換が出来なくなるから、余裕を持ってすること」
 「はい…………」
 「ちょっとハンドル貸して。体勢を立て直すから」
 
 言うなりハンドルの上に乗せた手の甲に掌が重ねられて、心拍はいよいよ最速に達する。
 言われるがままに少しアクセルを踏んでエンジンを回すと、いつの間にか入力されていたリバースのレバーに従って、緩やかに車が後退を始めた。
 急速に縮められた距離に息が止まって、動きに合わせて揺れる細い髪がキラーの目を釘付ける。
 車道から落ちたタイヤが元の位置に戻っても、元来放棄していた集中力が戻ることはなかった。
 
 
 「お疲れ様。まあ、今日はこんなものだろう」
 
 原簿にサインをしながら、青年は事もなげに言う。
 ペンギンと署名のされた初実車日の項目をぼうっと眺めていると、改まった様に青年は言った。
 
 「初心者とは思えない程運転には慣れているな…………まあ、あまり深くは追求しないが」
 「は、はあ」
 「しかし油断するな。君の場合、注意力が少し散漫と言えるから。運転席に座っている時はいかなる状況でも運転に集中すること」
 
 誰のせいで…………!と、とっさにキラーは叫びそうになったが、何とかこらえる。
 勿論原因は目の前の、ペンギンというらしい青年にあるのだが、そんなことを言った所で不可思議な顔をされるだけだろう。
 
 「修検までの実車はあと1週間だ。これからはもっと具体的な課題に入って練習を進めて行くが、注意は疎かにしないように」
 「…………はい」
 「まあ、教官の中には仲良くなって行くうちに採点の甘くなっていく奴もいるが、俺はそんなことをするつもりは全く無いからな。覚悟しておけと、初めに言っておくぞ」
 「は…………え?」
 「如何した、何かあるか?」
 「いや…………担当って、毎回変わるんです、よね?」
 「いや?此処の教習所は、特に合宿生の場合は別段事情や問題が無ければ入校から卒業まで同じ担当が実車に付くことになっているが」
 
 目の前が真っ暗になった。
 あと1週間…………否、修検後の実車も合わせるなら2週間、この拷問は続けられるのか。
 軽く見ていた運転免許の習得が遥か彼方、手の届かない場所へと滑り落ちて言った様な気がした。
 
 「何だ、何か不満があるのか」
 「い、いや。そういう訳じゃないですけど」
 
 しかし無論嫌な訳が無い。
 先程、注意力散漫の原因は彼にあると言ったが、より正確に言えば"彼"ではなく"彼と共にいる自分"にあるのであって。
 寧ろ有りすぎるほどに指導力のありそうな彼が教官となれば、普通の生徒ならばかなり効率良く練習過程を進めて行けるはずだ。
 
 「に、2週間宜しくお願いします!」
 「ああ…………改まって言われると、何だか不可解な気分だがな」
 
 如何にも整理のつかない心情を端に追いやって、取り繕う様に頭を下げると、相変わらずの無表情が少し揺らいではにかむ様な笑みが浮かんだ。
 
 「此方こそ宜しく。ああ、あと」
 
 その笑みに暫し見とれていると、不意に視界がクリアになった。
 
 「?!」
 「運転する時にその前髪は無いだろう。次からはしっかり上げて来い。あと、出来るなら後ろ髪も縛った方が良いな」
 「は…………」
 「万が一があった時、前方の注意も出来ないようでは困る。後方確認をした時、長い髪がハンドルに絡まっても如何にもならないからな」
 
 悪戯っぽく笑う綺麗な表情が鮮明に見えて、一層赤くなった顔をペンギン青年は不思議そうに覗きこんだ。
 
 「どうした?顔が赤いが…………熱でもあるんじゃないだろうな」
 「だ、大丈夫です」
 「そうか…………体調が悪いなら無理はするなよ。期間中に卒業したければ余計にだ。無理をしても良い事なんて何も無いからな」
 「はい…………」
 「なら良い」
 
 茫然として返事をすると、少し解せないという顔をしながらも興味を失ったかのように片手が前髪から離れた。
 再び曇った視界にたじろぐと、くすりと笑う様な声を残して教官は此方に背を向けた。
 
 「今日の実車はこれで終わりだ。ちゃんと復習して、明日に備えておくように」
 
 言うなりすたすたと歩いていってしまう背を、留めることも出来ずに見送る。
 教官に重要なのは性別とか容姿とか、性格とかそういう物では無くて、的確な指導力こそである。
 そんなことを言っていたのは一体誰だっただろうか。
 
 (反則だろう…………!)
 
 未だかっかと火照る頬を持て余して、キラーは熱い息をひとつ吐いた。
 明日から始まる日々に少しの期待と多くの不安を残しながら、原簿を握りしめた手がぎゅっと震える。
 
 澄み渡った快晴にも、路面状況の悪さが打開されることはなさそうだ。



 2012.02.17.