その瞳、天下無敵にて

 時折、こいつはひょっとして凄まじいコミュニケーション障害でも抱えているのではないかと頭が痛くなることがある。
 今がまさにそのタイミングで、眉間の皺をほぐすこともままならずペンギンは深く息を吐いた。
 
 「…………だから」
 「んー?」
 「俺はこの体勢が如何にかならないのかと訊いているんだが」
 「んー…………」
 「おい、キラー」
 「好きだよ、ペンギン」
 
 先程から終始この調子である。
 壁にもたれて本を読んでいたペンギンをべりりと壁から剥がしたかと思えば、その隙間に入り込んで後ろから抱きとめる様な格好を取ったキラー。
 そのままずるずると座り込んで、彼の腕に抱えられるような体勢になって早三十分。
 幾ら未だ風が冷たいとは言え、室内は程良く暖房がきいていて、窓から射し込む陽光も酷く温かい。
 穏やかな陽気の中でゆっくりと読書に耽りたかっただけなのに、過ぎた温もりはただ眠気を誘う邪魔者でしかなく。
 おまけに幾ら人気が無いとは言え、公衆の面前とも言える場所でこういった行為をされることに未だ抵抗があるペンギンにとって現在のキラーとは、結論から言うと
 
 「邪魔」
 「そんなこと言うなよ」
 
 只管に厄介かつ邪魔なものでしかないのである。
 
 「俺は本が読みたい」
 「読めばいいじゃないか」
 「お前がそこに居ると邪魔なんだ」
 「何で?」
 「ページが捲り難い、熱い、鬱陶しい」
 「…………俺、一応お前の恋人だよな」
 「それがどうした」
 「その言い草は」
 「それに、此処が何処か分かってるのか?」
 「…………図書館」
 「そう。公共の場だ。こんな奥まで人が入り込んでくることは滅多にないが、それでも俺にとってこうした場所においてお前にこういう体勢を許すのは本意ではない。分かるか?」
 「んー…………」
 
 熱くなる耳朶が髪に隠れていることを切に願いながら必死に平静を装って諭そうとするペンギンの努力も虚しく、脱力した声をあげてキラーは折角持ち上げた顔を再び肩に埋めてしまう。
 ふわふわとした金糸が頬を擽って余計に熱が高まるが、気付かないふりをしてもう一度大きく息を吐きだした。
 
 「…………最後だ。もう一度言う」
 「ペンギン」
 「何だ」
 「今日、何の日か知ってる?」
 「…………はあ?」
 
 思い切り怪訝な顔をして訊き返すと、ちらりと浅葱の目が此方を見て言った。
 
 「桃の節句」
 「…………それが如何した」
 「だから、ペンギンを甘やかさなきゃいけないのかなあと」
 「…………何処が如何なって"だから"の接続詞に繋がったのか全く理解に苦しむんだが」
 「相変わらず可愛いな、ペンギンは」
 「…………その頭蓋を切り開いて中身を見てみたいと思ったのは一度では無いと言う事を伝えておこう」
 
 大きく開かれた窓から不意に風が吹き込んで、小さな桃色の花弁が舞い込んでくる。
 
 「あ」
 「桃の花、だな。館前の公園から飛んで来たんじゃないか」
 「綺麗だ」
 「…………」
 
 薄紅の花弁を掌に広げてにこりと浮かべられた透明な笑みに、今度は少し違う色の吐息を醸し、ペンギンはぱたりと分厚い本を閉じた。
 
 「やめるのか」
 「飽きた。それに、お前に離れる気が無いのなら幾ら目を通した所で文字の一欠片も頭に入って気はしない」
 「…………ごめん?」
 「かなり今更だな」
 
 頭が弱い訳では決してないのだが、どうにもテンポがひとつずれたキラーの反応にくすりと笑みを零し、立ちあがって頭上の書架を仰いだ。
 背丈より少し高い位置にある空きに本を戻そうと爪先が踏ん張る前にすらりと細い指が伸びて、手の中からハードカバーを取り去ってしまう。
 むっとして睨む様な顔をすると、嘲笑うでもなくあくまで綺麗な笑みが気遣う様に此方に向けられているのが見えて、今度こそ本格的に抜かれてしまった毒気にペンギンは頭を抱えた。
 
 「今日、家で夜食べていくか?」
 「!」
 「雛祭りなんだろ。ちらし寿司でも作ってやるよ」
 「蛤のスープも」
 「はいはい」
 「桃色のスパークリングワインも買っていこうか」
 「…………乙女か」
 
 とても楽しそうに空へ謳うキラーを見て、抜ける様な青空と合わせてそのパステルカラーの対比が酷く眩しく感じる。
 レモンイエローの髪が風に靡くのは、後ろを歩く身としてとても煩わしいもので。
 仕方が無いから少し歩を速めて隣に並ぶと、御約束のように握られた片手が熱を帯びる。
 
 「…………」
 「…………振り解かないのか?」
 「雛の節句だからな」
 「何だそれは」
 
 言い出したのは自分の癖に可笑しそうに言うその横顔がどうにも癪に障って、彼の器に蛤は入れてやるものかと内心でひとつの決意をした。



 2012.03.03.