君のことが好きなだけ!

 所在なさげに彷徨った視線は、結局良い場所も見つけられなかったようだ。
 そろりと床に腰を降ろした彼に、ペンギンは苦笑して言った。
 
 「ベッドに座れば良いのに」
 「そ、そう言う訳にもいかない…………!」
 「可笑しな奴だな」
 
 丁度キラーと付き合いだしてから一ヶ月が経った。
 何だかんだと悶着はあったものの結局気持ちに嘘の突き通せなかった自分達を友人(と呼べるのだろうか、あの傍若無人振りでは)は祝福してくれたものの、世間がそう甘くは無いことをペンギンは知っている。
 だからこうして彼を自宅へ招くにも、なかなかの葛藤があった。
 
 というのは、建前。
 
 基本的に、ペンギンは自らの領域に他人を入れることを良しとしない。
 それは物理的な意味では部屋であり、関係的な意味では人付き合いそのものである。
 
 件の友人(?)――――幼少から親しいローやシャチは例外だが、それにしても自らの交友関係は非常に浅い。
 割合すぐに他人と仲良くはなるのだが、仲が良いのと心を許せるのではその意味が違う。
 出会い頭に挨拶をかわす程度の知り合いは多いが、一度家へ招くとなればそれは別問題である。
 記憶している限りでも、この部屋に招いたのはローとシャチ、あるいは両親だけだ。
 そう言う意味で、未だ関係もそれ程深くない彼を自分のテリトリーに招き入れるという行為を決行するにはそれなりの決断力が要った訳で。
 
 即ち、勿論、それは不快な物ではないが、兎角、現在そわそわと自室の床に彼が座り込んでいることに対して、並々ならぬ緊張を強いられているというのが事実である。
 
 「ごめんな、何も無くて」
 「い、いや…………」
 「友達を家に呼んだりすることも殆どないから、椅子とかも俺の分しかないんだ」
 「気にするな。そう易々と他人を呼んでいたのでは、返って俺の方が不安になる」
 「何だそれは」
 
 一方キラーはと言えば、此方もまた別の意味ではあるが酷く身体を強張らせていた。
 
 ペンギンが容易にその懐へ他人を入れる人物でないと言う事を、キラーはおそらく本人以上に知っている。
 というのも、それは彼を意中と決めてからどうアプローチするか頭を悩ませていた際に得た認識で。
 彼は大抵の場合にこやかに他人と時を過ごしているのだが、特段親しいトラファルガーやシャチの前で見せる表情とそれらは同じようで全く違う色を持っていた。
 
 それは時に旧友への親愛とも言うし、他者への拒絶とも言う。
 
 彼の狭い(勿論悪い意味ではない)懐に今自分が居ることを許されているのだという事実は非常に嬉しいが、同時に少し重くもある。
 しかし無論その重さは彼が自分の恋人であると言う喜ばしい限りの現実に付随する、喜楽を底上げするだけの心地良い重さだった。
 では何故キラーが今これ程に落ち着かない態度を取っているのかと言えば。
 
 
 かちゃりと軽い音を立てて開いた扉を潜った瞬間、キラーは強い眩暈に襲われた。
 片壁を埋める書架と、書架を埋める書物の量。
 所狭しと並べられた参考書は机の上にひしめいていて、その前には一脚の座り心地よさそうな椅子がある。
 窓に沿って置かれたベッドは日の光を燦々と受けて暖かそうに佇んでおり、黒を基調としたそれらの家具は白の壁と天井、あるいは薄い色のフローリングに酷く映えていた。
 整理整頓の行き届いた室内に彼らしさを感じすぎるほどに感じて、今自分が此処にいると言う事実に頭がくらりとする。
 極めつけとばかり、彼の好む香り仄かに漂って鼻孔を通り抜けたとき、避けようも無く思考回路はショートしてしまったようだ。
 
 
 部屋は主の色を明瞭に現すと言われるが、この時ほどその言葉を現実として感じることは無かった。
 壁にもたれて座り込んでいるだけであたかも彼自身に包まれている様な気さえするこの感覚は少し過剰かもしれないが、兎も角今それ程に、キラーは今緊迫したバランスの上に成り立っている。
 
 「なあ」
 「は、はい!」
 「はいって何だよ。今更他人でもあるまいし」
 「ご、ごめん」
 「んー…………流石に床に座られてたら落ち着かないんだがな…………」
 「だ、だが…………!」
 「いいから。ベッドに座って待っててくれ。今何か淹れて来る」
 
 膝を抱えて座り込んだ自分にひらりと軽い言葉を残して扉の向こうに消えたペンギンの背を見送る。
 待たされることに然したる苦を感じたことは無いキラーだが、この時ほど相手方の早い帰還を願ったことは無かった。
 そのままの体勢で固まって暫し。
 しかし言われた手前、このまま座り込んでいるのも気を悪くさせるだろうかと思い直し、座った時と同じようにそろりと立ち上がって取り敢えずその場に立ち尽くしてみる。
 
 「…………」
 
 ベッドをじっと見据えて数十秒、あるいは数分。
 黒のベッドカバーに覆われた羽毛布団は柔らかなフォルムを描いて、優しい陽の光に温まっている。
 そっと、おそるおそる腰掛けると、立ち込める彼の香りが一層強まった気がした。
 
 「…………っ」
 
 今更生娘でもあるまいし、と理性は否定するが、それに感情が付いていくかと言えばそれはまた別の問題で。
 らしくもなく、たったそれだけの行為でぶわりと顔面が朱に染まったのを感じて、熱くなった耳をぱたぱたと仰ぎ一先ず熱を逃がす努力をする。
 
 「待たせてすまない」
 
 ドアノブを捻る音がして、片手に盆を携えたペンギンがひょこりと顔を覗かせた。
 
 「…………熱いのか?」
 「いや、熱いと言うか何と言うか…………」
 「…………ホットコーヒーじゃ不味かったかな」
 「そうじゃない!」
 
 否、どちらかと言えばキラーはコーヒーよりも紅茶党なのだが、この場においてそんなことはどうでも良い。
 受け取ったソーサーを膝に抱え直しても未だ抑留された熱は冷めず、ぐるぐると思考を巡らせているとくすりとペンギンが笑う気配がした。
 
 「…………何だか、難しく考えすぎていた自分が馬鹿みたいだ」
 「え…………?」
 「心を許すとか、テリトリーに入れるとか。ごちゃごちゃ考える必要も無かったみたいだな」
 「…………何のことだ?」
 「うーん…………」
 
 少し悩む様な素振りを見せたペンギンが、カップをデスクにおいて立ち上がる。
 そのまますたすたと此方に近づいた彼を不可思議な目で見て、キラーは速まる鼓動を収束させることに努めた。
 
 「こういう事かな」
 
 上背を屈めて近づいた顔に驚いていると、そのまま唇に柔らかい感触が当たる。
 茫然自失としたままその黒耀の瞳を仰ぎ見るキラーに可笑しいと言わんばかりの柔らかな笑みを向けて、ペンギンは言った。
 
 「お前が好きだってことだよ、キラー」
 「…………な」
 
 ぶわと一層赤面する自分が何だか酷く情けなくて、余裕綽々と言わんばかりの彼の笑顔が少し憎くなる。
 そのままとすりと、ペンギンはキラーの横に腰を降ろした。
 
 「!」
 
 ぎし、と唸るスプリングは催促をしている様にも感じられたが、一先ず今の自分にはこれが精一杯だ。
 ソーサーを支える左手を残し、右手だけで傾かせた彼の顔へもう少し深い口付けを贈って、内心の動揺をひた隠す。
 
 薄く開いた黒耀の目は、かちゃりと陶器が触れ合う音に少し色を移した。
 
 「…………っは、き、キラー!」
 「…………何だ」
 「コーヒー!零れる!」
 「!す、すまない」
 
 慌てて両手をソーサーに添えて、最悪の事態を何とか免れる。
 ギリギリまで傾いたカップは表面張力の恩恵を絶大に受けて何とかその黒い液体を零さずに保っていたが、情けの無い失敗は雰囲気を一気に霧散させてしまった。
 
 「…………はあ」
 
 吐かれた溜息はどちらのものだったのか判然としないが、相互の瞳に来たる未来の遠さへの辟易が垣間見えたのは間違いではないだろう。
 
 「…………ゆっくり進んで行けば良いさ」
 「…………」
 
 これ程に自分が鶏魂を抱え込んだ奴だとはついぞ思わなかった。
 苦笑する様なペンギンにやりきれなくなって、一先ず手元のコーヒーを目一杯煽ることに専念する。


 2012.02.20.