桜闇

 夜桜見物に行こうと、声を掛けたのはペンギンだった。
 ペンギンからデートの誘いをしてくれることなど滅多に無いので、喜び勇んで飛び付いたキラーだったが、その選択が決して間違いで無かったことを今噛み締めている。
 
 「やっぱり陽の下で見るのと、月の下で見るのじゃ全然雰囲気が違うな」
 「そうだな」
 「折角桜の名所なのに、昼間は観光客で一杯だしなあ」
 
 花なんて見上げていたら、それこそ向かいから来る人の波に跳ね飛ばされてしまう。
 そう言ってくすくすと微笑むペンギンの横顔が夜桜に艶然と映えて、どくりと胸が脈打つのを感じた。
 
 大学近く、両人の各下宿先半ばにある疎水道。
 見事な桜並木は県外はおろか国外から訪れる人々にも好評で、毎年春先になるとおぞましい程の人で溢れ返るらしい。
 らしいというのは、実際その光景を目の当たりにしたことがキラーには無いからだ。
 現時刻は深夜も良い所で、流石に丑三つ時も回れば人影は少ない。
 それに話に聞くだけでも恐ろしいのに、わざわざ昼間からその光景を拝みに行こうと思う程物好きではないこともある。
 校内にも桜の木はあるし、下宿先の中庭にだって、ささやかではあるが綺麗な枝垂れ桜が魅せているのに、何も自ら人ごみに埋もれに行く必要も無いだろう。
 
 「話には聞いていたが、実際に来るのはこれが初めてだ」
 「そうなのか?有名な観光地なのに」
 「お前は来たことがあるのか」
 「一昨年、入学してすぐかな。昼に来たんだけど、あれは酷かった」
 「酷い、とは」
 「桜を見に来てるはずなのに、気付けば視線は周りの人の頭にばっかり行ってるし。ぶつからないように、ぶつかられないように。花を見てる余裕なんか無かったな」
 「それは災難だ」
 「だろう?結局道の終わりまで辿りつかずに、途中で切り返して帰ったよ」
 「そうか」
 「な、酷いだろ?」
 「時にペンギン」
 「何だ?」
 「こういうことはあまり聞きたくないんだが」
 「だから何だよ」
 「…………誰と来たんだ?」
 「……………………女の子」
 「…………そうか」
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 「…………」
 「…………な、何だよその目。お前に会う前だよ!真坂男と付き合うことになるなんて思いもしてなかった頃の話だ!」
 「別に、何も言ってないだろう」
 「それが逆に怖いんだよ!」
 
 微妙に漂う沈黙を打ち破ったペンギンにわざと冷えた声を返すと、機嫌を損ねたのかふいと顔をそらされてしまった。
 
 「ほら、折角昼間と違って人も少ないんだ。桜、見ないと損だぞ」
 「…………」
 
 少し歩調を早めた後姿に呼び掛けると、躊躇う様な間の後でひたりと足が止まる。
 頭上を見上げる彼に春の風が吹きつけて、細い髪を揺らすのがとても綺麗だった。
 そろりと横に並んで覗きこむと、黒耀の瞳に薄紅の花弁が酷く映え、茫と浮かぶ夜桜を暗い空ごと切り取り貼り付けて在るかのような錯覚を覚える。
 
 「…………何だよ」
 「…………綺麗だなと思って」
 「桜、見てないじゃないか」
 「お前が綺麗なんだよ」
 「何だそれ」
 「桜も勿論綺麗だが、俺としてはお前の方が綺麗だと思う訳だ」
 「…………女の子に言ってやれば。少なくとも俺はそれを言われても全く嬉しいとは思っていない」
 「それはすまないことをした」
 
 どうでも良い会話で煙に巻こうとした訳ではないが、一連の流れで若干眉間の皺は薄れた様な気もするので、追い抜きざまにするりと降りていた左手を奪ってみる。
 そっと滑らかな肌を包みこんで引くと、有難いことにそれは振り解かれることもなく、素直に止まっていた足も進められ始めた。
 
 「嫌だって言わないのか、いつもみたいに」
 「何が」
 「手。公衆の面前で触るな、とか。いつも言うじゃないか」
 「言って欲しいのか?」
 「真坂」
 
 未だ少し拗ねたような色の残る瞳が、少し俯きながら此方を見るので、困った様に微笑む。
 
 「あ」
 「今度は何だ」
 「ちょっと、じっとして?」
 
 そう言ってす、と開いた左手を伸ばして、瞳と同じ色をした暗い髪を彩る小さな花を指で掬った。
 
 「花弁、ついてた」
 「…………ありがと」
 
 儚く薄い、純潔の色をした五枚の花弁が作る桜の香りを掌で玩んでいると、不意に頬へ右手が伸びて来て、そのまま流れる様に唇を柔い感触が掠める。
 
 「ペンギ」
 「ほら。立ち止まってたら、何時まで経っても終わりが見えて来ないだろ」
 
 そう言って再び歩き始めた歩調は緩やかで、まるでその足音は終わりが来なければ良いのにと語らっている様にさえ聞こえるのは、キラーの都合の良い空耳故だろうか。
 きゅ、と絡められた指に気分を良くして、夜の道を三度歩く。
 
 「なあ」
 「何」
 「何かあったのか」
 「別に」
 「いつもは外で手を繋ぐのも、キスするのも絶対に嫌がるのに」
 「…………桜の闇に、酔ったのかもな」
 
 此方に顔は向けないで、ただ人のいない静かな夜に零れた呟きは、土に吸われることも無く密やかに耳朶へ響いた。
 
 「ペンギン」
 「何だ」
 「キス、しても良いか?」
 「…………勝手にしろ」
 
 その顎を掬いあげて此方を向かせると、桜の香に中てられた白い肌は微かに朱へ染まっている。
 色付いた唇へそっと口付けを落とすと、春の闇に全てが堕ちて行くようで。
 
 細い喉が奏でる甘い疼きに眩暈がした。


 2012.03.24.