silent kiss

 コンコンとドアがノックされる音が部屋に響いて、古書の香りが立ち込める個人研究室の中でペンギンはふいと顔を上げる。
 動いた拍子に凝り固まった首がごきりと嫌な音を立てて、少し顔をしかめた。
 ドアに嵌めこまれた細い硝子越しに金髪が揺れたのが見えたので、かちゃりと鍵を外し二畳程のスペースに招き入れてやる。
 
 「キラー」
 「久しぶりだ、ペンギン」
 
 此処暫くペンギンの研究が立て込んでいて連絡すらも途絶えていた為、勿論姿を見るのも久方振りだ。
 一週間後の論文提出に向けて作業を始めたのが一か月前。図書館の地下に備え付けられた院生用の個人研究室に立て籠もり始めたのは三週間前。
 要するに少なく見積もっても三週間程、構ってやりもせず放置していた計算になる。
 最初の内は来ていたメールに返信もしていたが、返信までのブランクが忙しさを間接的に伝えたようで、そのうち連絡も来なくなった。
 
 「どうしたんだ?急に」
 「…………すまない」
 
 からりと滑りの良い引き戸を開けて入って来る痩躯に空間を譲ると、後手に鍵を締め直す音が聞こえた。
 暫くぶりに拝んだキラーからのメール画面に何やら急を要する様な雰囲気を感じて、いそいそと訪問許可の返信を送ったのは三十分ほど前の話だ。
 
 「B202……ここがペンギンの研究室なのか?」
 「いや、ここは院生用に開放されてる書架の閲覧室だ。俺専用の部屋じゃない」
 
 未だ学部生の彼は、院には行かず四年次を過ぎれば職に進むらしい。そんな彼にとってこの部屋は縁遠い所なのだろう。
 殺風景な部屋をきょろきょろと見回すキラーに苦笑して、椅子に深く腰掛けた。
 
 「…………隈、すごいぞ」
 「え?ああ…………ここ最近、まともに寝てないからな…………」
 「…………余り無理をするなよ」
 「無理をしなきゃならない時もあるんだよ、大人には」
 
 くすりと微笑むその横顔には生気が無くて、疲労の濃い瞳の色にキラーは言い知れぬ不安を覚えた。
 
 「で?」
 「ん?」
 「何か急用があったんじゃないのか?」
 「あ…………あー」
 
 『今日、いつでも良いから予定を空けて貰う事は可能か?』
 
 キラーは平素から別段絵文字を多用する奴ではないが、それにしても簡潔な文章に急ぎを覚えて30分後を指定したのだが、早とちりだったのだろうか。
 冴えないその顔を見てそんな不安がちりと胸を掠めるが、強ちその印象は間違いでも無かった様で、言い難そうにキラーは次の言葉を切り出した。
 
 「急用、というか…………急用…………なのか?」
 「俺に訊くな」
 「うん…………ごめん、長く会ってなかったから」
 
 淋しかっただけなんだ。
 そう言うと酷く情けない顔をして、キラーはがばりとペンギンに抱き付いた。
 抑えられてもそれなりの勢いに咄嗟に受け身も取れず、ずるりと椅子からずり落ちて壁にへたり込む。
 久方振りの抱擁は和やかな体温を少し冷えた身体に伝え来てとても心地の良いものだったが、一時の憩いに流される程ペンギンの理性は脆くも無かった。
 
 「き、キラー!」
 「何だ」
 「此処を何処だと思ってる?!」
 
 幾ら人のあまり来ない地下書庫の、これまた人の少ない個人研究室の立ち並ぶ一角であるとはいえ、此処はれっきとした"外"だ。
 鍵は閉まっているものの扉に嵌めこまれた硝子からはしっかりと廊下の様子が伺える。
 即ち廊下から此方を覗きこめば、室内の様子もはっきりと観察できるという訳だ。
 明かり取りの窓から覗きこまれることはまあ無いだろうが、それにしても少なからずこの現場を他人に押さえられる可能性がある以上ペンギンとしては一刻も早く絡みつく男を引き剥がしたい所である。
 
 「誰かに見られたらどうするんだ!」
 「こんな奥まで、人は来ない」
 「にしても…………っ」
 「暴れるな。音が響く」
 「!」
 
 決して防音性の高くない壁。静寂ゆえに小さな物音でさえも響く地下。
 此処で下手に暴れて音を立てれば、少なくとも隣の個室に籠っている奴は何事かと様子を見に来ることだろう。
 
 「…………」
 
 急に大人しくなったペンギンの顔を覗きこむと、拗ねた様な困った様な、彼らしからぬ幼子の様に曖昧な表情が垣間見えた。
 流石にやり過ぎただろうかと、キラーはそっと腕の力を緩める。
 
 「…………すまない、困らせるつもりは無かったんだ」
 
 そのまま束縛を解いて、立ち上がるつもりだった。
 けれどシャツの袂を強く引かれて、伸ばした筈の膝が再び折れる。
 驚いてその腕の主を辿ると、顔を真っ赤にして俯くペンギンがそこにはいた。
 
 「…………れも」
 「え」
 「俺も、会いたかっ」
 
 言い終わりもしないうちに言葉は口付けに飲み込まれる。
 
 「っ、き」
 「喋るな」
 
 貪るような荒々しいキス。
 久方ぶりの快感に抗う事も出来ず、与えられる刺激に必死にしがみつくうちに意識が溶け始めた。
 歯列をなぞり口蓋を舐め取る舌、息継ぎの出来ない苦しささえも朦朧とし始めた視界に霞んで力の入らなくなった身体は、気付かないうちに覆い被さる影に縋りつくように委ねられている。
 ちゅ、と舌の根を吸われぞくりとしたものが背を駆け抜けると同時に、どちらのものとも分からない唾液が銀糸を引いて唇が離れた。
 
 「…………っは、あ」
 「…………」
 
 する、と細身のジーンズ越しに内腿を指が撫でる。
 びくりと肩を揺らすと、此方を見る浅葱の瞳と目が合って痺れたままの脳髄が無意識に唇を動かした。
 
 「き、ら…………」
 「…………そんな目をするな」
 
 首筋を這う舌の感触にふるりと震えるペンギンを宥める様に、キラーはその身体を抱き込んだまま柔らかく髪を梳いた。
 
 「全く…………俺だって、別にこんな所で事に及ぼうと思って来た訳じゃないんだがな…………」
 「…………っ」
 
 これは本当の話だ。
 確かに長い間ペンギンの声も聞けず、姿を目に映す事も出来ず、ましてや触れることも叶わなかった結果として随分と欲の吐き出し所を持て余していたのは事実だが、場所も選ばず盛る程に切羽つまっていた訳では当然ない。
 ただ、顔が見たくて、声が聞きたくて、あわよくばその熱を腕に囲いたくて。
 邪魔をしてはいけないと我慢していた筈なのに思わず送ってしまったメールに思いのほか早く返信が来たから、喜び勇んでその瞳の色を伺いに来ただけだったのだ。
 それなのに、
 
 「そんなに可愛い顔をされては、抑えられなくなる」
 
 するりと頬を撫でると、水を一杯に溜めた眦から一粒の雫が落ちて、カーペットを濡らした。
 
 「ほら、ペンギン。手を離せ」
 「…………ん」
 
 何とか立ち上がらせて、座り込んだ拍子にまとわりついた埃をぱんぱんと払ってやる。
 
 「研究、いつ終わるんだ」
 「…………来週、レポート提出」
 「そうか…………邪魔をしてすまなかった」
 「邪魔、じゃない」
 
 俯いた姿勢からは表情が伺えないが、未だシャツの裾から離れない指がその胸の内全てを物語っていて、キラーは必死に衝動を堪える。
 
 「今夜、」
 「ん?」
 「…………俺、一回家帰るから。泊り込みの荷物…………着替えとかも、一度取りに戻りたいし、だから」
 
 その言わんとすることは震える声から容易に推測されて、最後まで言わせてなるものかとキラーは結局再びその細い体を腕に閉じ込めてしまった。
 
 「っ、」
 「…………俺、今日バイト入れてたんだけど、キッドの奴が急に明日の自分のシフトと変わってくれって言い出したから、暇になったんだ。
 「…………」
 「…………今晩、行って良いか?」
 「…………ん」
 
 さらりと流れる黒髪に指を通すと、きゅ、と長い自分の金糸が掴まれる気配がする。
 そのままふいと身体を離すと、何事も無かったかのような、しかし確実に憑き物の落ちたようにすっきりとした表情のペンギンがいて、キラーは密かに安堵した。
 
 「じゃあ、夜に」
 「ああ。つまみでも作って待ってるよ」
 
 かちゃりと鍵を開けて、からりと扉を滑らせる。
 地下の書庫にも関わらず廊下の空気は室内のそれよりも幾分澄んでいて、つい数分前までの混乱が嘘のように脳裏を掠めて行った。
 そっと振り返ると、硝子越しには分厚い古書に目を通すペンギンがいる。
 何故か不思議な気分になって、コンコンと硝子を叩くと黒耀の澄んだ目が此方に向けられた。
 おそるおそる手を振ると、困った様に眉根を寄せながらも手を振り返す彼の頬笑みがそこにはあって。
 
 先程の約束は白昼夢でもないのだと、未だ乾かない熱を首筋に感じながらキラーは布張りの床を静かに踏み拉いて行った。
 窓枠の向こうに金糸が消えるのをしっかりと見届けた彼が、頬を赤く染めて書物の間に崩れ落ちるのはまた別の話。



 2012.05.01.