陶酔に至る空を辿り
風に乗って、噎せ返る様な花の香りが鼻孔を満たす。
見上げると遠い秋空は更に高く高く、手の届かない所へ逃げてしまった様な気がする。
傾いた夕日に黄昏は金色と立ち込めて、何故かたまらない心地になった。
香りのもとに首を巡らせると、重なり合った樹木の中にひときわ大きな金木犀の気が見えた。
濃緑の滑らかな葉に埋もれるようにして、幾つもの花房が咲き綻んでいる。
零れんばかりに溢れる赤黄色の小さな花弁は今が盛りとばかりに芳醇な香りを精一杯に振り撒いているようだ。
北の海に花は咲かない。
地上には勿論、南ならば海中に咲き乱れるであろう色鮮やかな珊瑚礁も、寒い北には侍らない。
何処ぞの冬島では桜が咲いたと言う噂を耳にした事もあるが、兎角今眼前に咲き誇る花は書物でしか見たことの無いもので、初めての香りに淡く胸が満たされるのを感じた。
不意にその根元に座り込んでいる人影が瞳に映り、ペンギンは思わず歩みを止める。
否、止めたと言うよりも、止まってしまったと言った方が正しいかもしれない。
「真坂こんな所でノースの酒が手に入るとはな」
「沢山買いましたし、今日は宴会ですね!」
「馬鹿野郎、長旅用の備蓄に早速手を付けてどうする」
「そんなあ」
「…………不寝番じゃねえだろう、今日」
「?ええ」
「飲みに連れて言ってやるから、そいつらには手ェ付けるんじゃねえぞ」
「ほんとですか!流石船長っ」
「抱きつくな!バラすぞ」
積荷を抱えて隣を歩いていた同輩も、他のクルー達も、船長ですら彼の存在には気付いていないようだった。
秀麗な顔の造作へ加えてあれ程に長い金糸、さぞ目立つだろうにと不思議に思ったペンギンだが、その横顔を見慣れている
彼は他人が仮面姿の彼しか見たことが無いのだという当たり前の事実に思い至らないらしい。
木の幹に背を預け空を見上げるその目は長い前髪に隠れて、一体彼が今どんな表情をしているのか、ここから見て取ることは出来なかった。
「良い匂いがするね。何の匂い?」
最後尾を歩いていた筈のベポが、隣に並びうっとりとした表情で鼻を傾けながら問う。
金木犀だよと教えてやると、なにそれ美味しいの、と円らな瞳で訊くので、少し笑ってしまった。
「花そのものを食べることは出来ないが、酒なら聞いたことがある。桂花陳酒と言って、白ワインに花弁を漬け込むらしい」
「ふうん」
酒を好まないベポはさらりと相槌を打っただけで、未だ芳しい空にご執心のようだ。
食べられないと分かっても魅惑的な香りであることに変わりはないらしい。
「行かないの?ペンギン」
「…………何処へ?」
「何処って…………船だよ?」
皆もう行っちゃうよ、置いて行かれちゃうよと心配そうな顔で言うベポに困った顔で微笑んで、ペンギンは言った。
「すぐに追いつくから、先に皆と行っててくれないか」
「うん、分かった。じゃあキャプテンの剣は俺が持って行くね」
言うなり片腕に抱いた長刀がひょいと持ち上げられて、後には手持無沙汰な空間とベポの笑みの欠片だけが残される。
一人で立ち竦むと途端に、心の隙が寒くなった。
いつの間にか地面に映った長く伸びる影に己の輪郭が分からなくなって、ぎゅっと激しく目を瞑る。
開いた視界の先には未だ彼がいて、少しの安堵と共に消えない言葉を胸に一つ足を踏み出した。
「何をしてるんだ」
「…………お前か」
突然現れたこの身にさして驚く事も無く、キラーは光の消えた瞳を此方へ向けた。
浅葱の瞳に映り込んだ夕焼けが、良く分からない色を作り出している。
馴染んだ透き通る空の色は見受けられなかった。
「ハートの奴らも此処に停泊しているのか」
「昨日からな。ログが溜まるのも早そうだから、きっと言わぬ間に出港だろうが」
「そうか」
「そっちは」
「一昨昨日の夜だ。今日の夜には出る」
「…………そうか」
「トラファルガーは、俺達が此処に居ることを知っているのか」
「いや、おそらく知らないだろう。お前が此処に居ることに気付いたのは、俺だけだから」
「…………言うなよ」
「言うものか。あの人が過去に囚われたり、情に縛られたりする姿なんて、見たくない」
まあうちの船長はそんな柔じゃないけどな、と乾いた笑いを洩らすと、声にならない苦笑が聞こえて少し過ぎた時を懐かしく思った。
「早いものだな」
「何が」
「時が進むのは」
「…………そうだな」
あの日から数えきれない程に刻は流れているのに、未だ心に巣食う穴は埋まらない。
気丈に振舞ってはいるけれど、一度刻まれた傷は中々消えるものでもなくて、時折最愛の船長が何も無い所を眺めて酷く虚しそうな顔をしているのを見掛ける。
それは目の前の彼に関しても並べて言えることなのだろう。
何処か遠くを見つめる鈍空の瞳が雄弁に物語っていた。
「俺は行かなくては」
「俺も戻らないと、シャチに騒がれる前に」
「この邂逅は」
「絶対他の奴らには言わないこと」
「分かっているさ」
微苦笑でさえもが美しく、刹那言葉を失うが何とか此方も微笑を絞り出す。
向けられた背が見たことの無い哀切を伴っていて、縋りたくなるような衝動に駆られるが足は未だ地面に縫いとめられたままだった。
これから先、きっとこの五感の立ち消えるまで。
赤黄色の金木犀を目にする度、その甘酸い香りを感じる度、胸が無駄に騒ぐのを止めることは出来ないのだろう。
くるりと来た道に向き直り、歩くスピードを上げる。
宛ら一時でも早くその場から立ち去りたいとでも言わんばかりに、速度は重ねられていく。
こんなにもたまらない気持ちでいるのに、期待外れな程に感傷的な雰囲気を纏える事は無く、只管に帰り道を急いだ。
閉じた瞼からあの日の言葉も流れて消えてしまえば良いのにと、柄にも無く空へ願う。
金木犀の香りに酔い痴れることは、出来なかった。
2011.09.30.