下弦の月
「先に入ったぞ」
「ああ…………」
鍵を開けて部屋に入ると、そこに姿は無かった。
只、リビングの灯りは煌々とついていて、シャワールームから水の迸る音が聞こえたので。
ペンギンは着替えもそこそこにソファへ身を沈め見たくもない番組に目をやっていたという次第である。
声のした方に顔を向けると、未だ拭いきれていない水滴を豊かな髪に奔らせながら、同居人が扉を開けたところだった。
季節は秋へ移ろう少し前、未だ窓を開けても蒸し暑い気候で、上着を羽織るのは些か暑いのかもしれない。
しかしそれでも、程良く鍛えられた肉体を露わにして悠然と部屋を歩き廻られたのでは、少し動悸の持たないのも事実だ。
「服着ろ、服」
「暑い」
「いいから」
「何だ、照れてるのか」
「違う」
「俺の裸なんて、毎晩見ているだろうに」
「う、煩い」
「今晩だって」
「良いから着ろ!」
ベランダから取り込んだ洗濯物の山から適当なTシャツを引っ張りだし、徐に投げつける。
風の抵抗を受けながらも綺麗に放物線を描いた黒い衣服は、ぱさりと標的の頭上に舞い降りた。
しぶしぶといった体で袖を通す様子に兎角安堵して、落ちたバスタオルを拾い上げる。
「髪」
「ん?」
「またちゃんと乾かしてないだろ」
「面倒じゃないか」
「折角綺麗なのに、勿体無い」
「お前の方が綺麗だ」
「か、髪の話をしているんだ」
「否定しないのか」
「…………お前と話すのは本当に疲れる」
「はは」
「笑い事じゃないぞ」
その腕で囲い込まれる前に無理矢理ソファに座らせ、後ろからわしわしとタオルで水気を飛ばす。
美しい金糸の髪は相応に細く柔らかだ。
見目程量は無いものの、それでも己のそれを遥かに凌駕する。
こうしてキラーの髪を拭いてやるのが、気に入りの日課だった。
「もう少しちゃんと手入れをしたらどうなんだ。せめて洗面所で乾かしてから来るとか」
「拭くのを楽しんでいるのはお前じゃないか」
「…………それは否定しないが」
「それに、女なら兎も角、男の俺が自分の髪なんかに感けるのも可笑しな話だろう」
目の前の男が鏡を覗きこんで枝毛に顔を顰める様を想い浮かべる。
それは予想以上に滑稽で、暫し固まっていると、ほら言わぬことはないとばかりにキラーが少し笑いを洩らした。
「それに、髪だってお前の方が綺麗だよ」
「真坂」
「黒耀に稲妻、イワトビペンギン」
「…………」
「これで目が紅かったら完璧なんだけどな」
「…………フン」
「怒るなよ」
「怒っちゃいないさ。多分な」
「お前は"多分"が一番怖いんだ…………俺は好きだよ、お前の黒い瞳」
逆さに合わせられた視線が近づき、頬に手が添えられる。
器用に交わされた口付けも程々に、濡れたタオルを手にペンギンは顔を上げた。
「晩飯は」
「冷蔵庫」
「食べてないのか」
「今日は遅くなるって聞いてなかったから、待って一緒に食べようと思って」
「そうか」
「先に風呂に入ってきたらどうだ?準備をしておくから」
「分かった。すまない」
「上着は着なくても良いぞ」
「がっつり第一ボタンまで留めて来るから心配するな」
2011.09.18.