Tulipa gesneriana
『キラー?』
がしゃんと派手な音がして、手から零れ落ちた硝子の水差しは無残にも砕け散った。
透明な水がフローリングの床を這い、未だ瑞々しく咲き誇っていた花は今やだらりと所在なさげに肢体を投げだしている。
「もう、いいって言ってるじゃないか」
噛み締められた唇からは赤い液体が滲んで、痛そうだなあとキラーは場違いにも思った。
「ペンギン?」
「いいんだ、お前は何も悪くない…………全部、俺が勝手に思ってただけの事だから」
ルームシェアを始めてから、日は浅くない。
そろそろ終わりを迎えようかと言う大学生活、就職も無事に決まった。
この春には卒業して、彼と自分は別の道へと進んでいく。
共同生活は何も互いにそれを望んで始めた訳では無くて、ただ単に、偶々相手が彼だったと言う、それだけのことで。
別段甘やかな関係故のものでも、ない。
ただ、そう、長い人生においてほんの僅かな青春の戯れに、唇を重ねた。
記憶に新しい聖夜に、舞い始めた雪と程良く回ったアルコールに脳髄が霞められていた、その刹那の、気の迷い。
否、気の迷いですらないのだろう。
魔が射したとしか言いようのない僅かなその瞬間にいつまでも拘泥していた己がきっとおかしかったのだ。冷静に考えれば、直ぐに分かる。
けれど僅かにも時は流れて、その速さは目を見張るものがあって。
日の傾きが徐々に遅くなるのをテラスに続く大窓から眺めては、近づく別れの季節に何処か気の急くようなもどかしい心持になった。
女性の名前が映しだされた携帯電話の液晶が、床に落ちている。
一体どうすれば良いのか分からないと言った体で伸ばされた手はこの身体に届くことはなくて。
滲み渡る水が、まるであの世とこの世を隔てる幻の川のように、美しく彼との距離を遮断する。
「ペンギン」
「ほら、飯、出来てるから。床ならすぐに拭く――――」
「ペンギン!」
ぱしゃりと彼の靴下が水溜りを踏んで、僅かに水滴が跳ねる。
黒の布地に水はどんどん吸われて、冷たそうだなあとペンギンは場違いにも思った。
「何がいいって言うんだ」
がしりと掴まれた腕を振りほどく事も出来なくて、泣きそうな心で彼を見る。
浅葱の目には本当に、純粋な困惑しか映ってはいなくて、彼にそんな顔をさせてしまった自分に果てしなく嫌気が射した。
「もう、いいんだ…………っ」
見るともなしに携帯電話のブラックアウトした液晶を睨みつける。
「俺は、良くない」
ひょっとすると焦りの色さえ見られそうな澄んだ瞳は未だ此方を見据え続けていて、酷い姿を網膜に映し続けている。
「なあ、ペンギン」
『キラーってば、聞こえてるの?ねえ、キ』
キラーは携帯電話を拾い上げ、無感動にその画面を眺めると徐に電源を切った。
「話をしないか」
床に触れた肌が硝子の鋭い破片に傷つけられたのだろうか。
指の先から雫が滴り落ちて、花の色を変えて行く。
「きっと、俺はお前に伝えなければいけないことがあるから」
「キラー」
純白のチューリップが、あたかも私は最初から赤色でしたと言わんばかりに、ヘモグロビンの鮮紅に染まり行くのを見て、頬を涙が滑り落ちるのを感じた。
色で変わる花言葉
2012.01.29.