HONEY TRAP
帰宅すると、ペンギンの姿が何処にも見当たらなかった。
サークルの飲み会に付き合わされた結果時刻はとうに深夜を回って、平素通りならばとっくに彼も帰宅している時間だ。
そっとリビングへ続く扉を押し開けると明かりはついたままで、テレビも消されていない。
けれどそこに点けた筈の当人はおらず、ダイニングキッチンから彼の部屋、果ては浴室まで確認するが(別段疚しい気持ちから行った訳ではない)、その姿は遂に見つけられないままだった。
きっと鍵も掛け忘れ何処かへ出掛けたのだろう、そう、例えば朝食用のパンがきれていたからコンビニに買いに出掛けているとか。
しかし風呂場は未だ水滴を残していたので入ったのはそう遠くも無い過去のことだろうと推測できる。
(…………湯冷めして風邪をひかなければ良いんだが)
不思議と胸は騒がなかったのでさしてその事実を気にも留めず、つらつらとそんなことを考える。
兎角一先ず荷物を降ろそうと自室への扉を開け、キラーは少し目を見開いた。
「…………こら、ペンギン」
「…………んー?」
「髪を乾かせ。風邪をひくぞ」
「んー…………」
濡れた髪もそのままに布団も被らず、他人のベッドに突っ伏している影にそっと声を掛けると、寝惚けているような反応が返って来た。
しゃがみ込んで目線を合わせると、とろんとした目が開いて此方を見る。
「ほら、起きろ」
「…………キラー?」
「ああ。ただいま」
「ん、おかえり…………」
「全く、何故こんな所で寝ているんだ?」
「…………帰りが」
「え?」
「帰りが、遅いから…………いつ帰って来るのかなって、待ってたら」
眠くなって…………と零す恋人が自分よりも年上で、更に社会人だなんてこの有様からは到底思えない。
幼子の様に紡がれる言葉に耳を傾けて、キラーは少し息を吐いた。
「今日はサークルの飲み会だったんだ。遅くなるって、昨日言っただろう?」
「そう、だっけ…………?」
「だから先に寝てて良いと」
「…………でも」
「でも?」
何だか淋しくて。
うー、とか、あーとか唸りながら結局そのまま身体を丸めてしまったペンギンの爆撃にキラーはただ只管に、びきりと固まった。
眠気に理性が犯されている為とはいえ、目の前のこの人の、これ程に素直な心情を聞ける機会は滅多と無いからだ。
あまりにオブラートを纏わないその直球の言葉に動けないでいると、もぞりと動いた身体が再び眠りの体勢を取ったのが分かりそこで我に帰る。
「こ、こらペンギン」
「んー?」
「だから髪を乾かして、自室で寝ろと言っているだろう!」
「駄目…………眠い…………」
「眠くてもだ」
「髪が濡れたまま寝ても…………死にはしない…………」
「確かに死にはしないが!そんな薄着で髪も濡れたままでは風邪をひく。困るのはお前だぞ」
「んー…………」
そうなのだ。
髪が濡れているだけなら未だ良い。キラーが拭ってやれば良いだけのことなのだから。
だがしかし問題はもうふたつあった。
ひとつはその薄着。
黒のタンクトップから伸びる腕と露わな首筋は、火照り故にいつもの白さへ血色の良さを上乗せし見ているだけで寒々しい。
そしてもうひとつは、そこから放たれる壮絶な色香にあった。
冷静にペンギンを促しているようで、内実では荒れそうな熱を必死に抑え込んでいるのが現状だ。
普段は見せないそのあどけない表情も、伏せられた長い睫毛に縁取られる目も、誘う様に開かれた唇も、上記する肌も、首筋に張り付く未だ消えない鬱血の痕も。
挙句場所は自室のベッドの上。誘われているとしか思えない状況に理性が抗っているうちに、出来ることなら早く退散して頂きたい。
キラーとしては流されてしまいたいのが本音だ。
しかし寝込みを襲う程飢えてもいないつもりだし、というよりも恋人の健康を損なってまで欲を突き通してしまう程子供であるつもりもない。
そして仮にこのまま事に縺れ込んでしまっては明日の朝怒られるのは自分だろう…………まあ、そこは別に良いのだが、いよいよ彼が風邪を患ってしまうその未来だけはせめて避けたかった。
「…………仕方ないな」
未だ酔いの冷めていない身体ではバランスを取りきれるか些か不安の残るものの、意を決してその膝裏に手を差し入れる。
反動を付けて立ち上がると相変わらず見目以上に軽いペンギンの身体は易々と持ち上がって、少したたらを踏みながらもその痩身を姫抱きにすることに成功した。
「ほら、部屋まで連れて行ってやるから。動くんじゃないぞ」
「んー…………」
「っ」
しかし漸く踵を返したのに、突然の口付けに傾いだ身体は虚しくも抱えたその人もろともベッドに倒れ込んでしまう。
触れるだけのキスだったが、驚いた拍子に覚束を失くした足は安定を失って、仰向いたままで天井に向かってキラーは今夜二度目の息を吐く。
「…………ペンギンさん、貴方一体何がしたいんですか」
何事も無かったかのように此方を向いて眠りこける恋人に苦笑が漏れて、仕方が無いとキラーは努力を諦めた。
握られたままの手は当分離して貰えそうにもないし、まあ、濡れた髪が寝癖で爆発しても、困るのはこの人だけだ。
煙草臭いままの服で眠りに付くのは些か不快だが、幸運にも明日の午前に授業は無いし、シャワーを朝に回しても支障はないだろう。
せめて蒲団だけでも、と足元にある毛布を引き寄せ、そっと肩口に掛けてやると、ペンギンはこそりと動いて此方の熱を奪うかの如く身体を寄せてくる。
「…………偶には、我儘をされるのも悪くは無いか」
そっと額に口付けを落として、無視し続けてきた睡魔の影に身を委ねることにした。
「おやすみ、ペンギン」
細い肩をそっと抱いて目を閉じる。
明日の朝、きっと階上階下の部屋にまで響き渡るだろう彼の慌てた声で目が覚めるのが酷く楽しみだ。
2012.04.04.