Good night, my darling.
細雪が雨に変わったあたりから、何とも言えない不安感がひしひしと心の隅から湧き出る様にペンギンを犯して行った。
それでも弱みを見せるのはどうにも癪で、何事も無いかのように振舞っていたのが夕餉の食卓。
雨雲が密度を増して、雨脚が勢いを強めたことに窓の内から気付きながらも、気付かないふりをしていた。
いつも頼り放しなのに、彼は嫌な顔一つせずこの不安を受け止めてくれる。
その事実は酷く嬉しい筈なのに、何故か少し面白くなくもあって。
そんな心の逆説が生み出した仮初の虚勢を、しかし今となっては後悔していたり、していなかったり。
「…………」
布団の中に潜り込んで数十分。
訪れていた筈の眠気は、時折カーテンの隙間から射し込む鮮やかな光りのせいで完全に何処かへと吹き飛んでしまっている。
花冷え、一向に温まらない布団の中でペンギンは仕方なしに寝返りを打って、窓から顔を背けた。
雨は、嫌いだ。
大切なものを、大切な人を、全てを連れ去ってしまう。
香りも色も、空気でさえも、暗欝な灰色は全てを拭い去る。
雨が降って、水が流れて、終わった後には何も残らない。
嫌になるほどに澄んだ空だけが、呆れるほどに偉そうな顔をして此方を睨め付けるのだ。
闇の中に響く雨音は、彼を失ったあの日を酷く容易に想起させて。
あの日の空を目蓋に映す度、呼吸は酷く苦しくなる。
強い雨音が耳朶に入り込んで、脳内を侵して行く。
ぎゅっと目を瞑ると余計に聴覚は過敏となるようで、いっそ水がそのまま脳裏へ沁み込んで頭蓋の中で音を立てているような気さえした。
しかしかといって目を開ければ嫌になるほど明るい夜の光が目に染みるので、他に為す術も無い。
深く布団に潜って息を潜めていると、厚い硝子をものともせず夜の嵐は吹き荒れる。
轟く神の怒りは徐々に距離を詰めて来ているようで、一定の間を縫って大きくなるその音に胸中の不安は色を強くした。
「…………っ」
不意に、きつく閉じた瞼の隙から閃光が射し込んだ。
寸部の時を置かずに低く鳴り響いた轟音にびくりと肩を窄める。
背を嫌な汗が伝い、呼吸が荒くなった。
「…………っは」
どくりどくりと心臓が不規則に脈を打って、冷や汗が額を濡らす。
見開いたまま閉じることの出来ない瞳は渇いて、生理的な涙が浮かんだ。
「…………」
コンコン、と控えめに扉の叩かれる音に、再度肩を揺らす。
聞き違いとも取れる程に小さな音はそれでもペンギンの耳にしとりと馴染んで、
「…………何だ、こんな夜中に」
「…………すまない。起こしてしまったか?」
見え好いた気遣いには気付かないふりをして返事をすれば、隠しきれない心配を裏に貼り付けた困り顔がドアを静かに開いた。
「…………眠れないんだ」
「…………」
「雷と、雨の音がうるさくて、その」
「…………」
「良ければ、明日の朝、まで…………否、雨が止むまでで良いから」
一緒に居させてくれないか、と途方に暮れた様に呟くキラーの様子が宛ら濡れ細った猫の様で、少し可笑しな気持ちになった。
「…………雨は、明日の朝まで降り続くそうだぞ」
いつの間にか止まった震えに心の何処かで安堵しながら、僅かに引き攣った笑いを頬に浮かべてペンギンは言った。
「…………添い寝で良いなら、してやるが?」
いつか聞いた科白をそのままに呟くと、キラーは一瞬狐につままれた様な奇妙な顔をして、やがてふにゃりと相好を崩した。
ふたりで横になるにはやや狭いベッドの上で布団を被り直すと、自分よりも少し広い胸に囲い込まれる。
僅かな抵抗を見せるも、ぎゅうと腕に力を込められてしまっては振りほどきようも無い。
仕方無しに抱き込まれた体勢のまま目を閉じると、生っきたの暖かさが薄い皮膚を通して伝わり来て、言いようの無い安堵に包まれた。
「…………キラー」
「…………ん?」
「…………ありがとう」
「何でお前が礼を言うんだ」
くすりと苦笑を零すキラーの脛をげしりと蹴りつけて、今度こそ睡魔を手繰り寄せる。
けれど手を伸ばすまでも無くそれは閉じた瞼の随分と近くまで滑り寄っていたようで、緊張を解いた瞬間に堪え切れない眠気が全身を襲った。
柔らかな鼓動の響きを感じながら、少し息を吐く。
「…………おやすみ」
「…………ああ」
さらりと髪を撫でる手が、酷く心地良かった。
嵐の夜も、悪くない。
2012.04.15.