ST. FLY DAY
…………まずい。
傘を射した夜道で、ペンギンは息を殺しながら歩いていた。
街灯も疎らな暗い道、静まり返った公園を横目に雨音にじっと耳を澄ますと、足音が聞こえる。
ひたひた、ひたひた。
春というのは総じて気の浮かれるものである。
それが出会いの季節に伴う高揚ゆえなのか、別れの季節に伴う自棄ゆえなのか、明瞭なところはペンギンには分からない。
ただ今この瞬間に言えるのは、後ろから響くこの足音が決して自分に幸をもたらすものではないだろうという、論拠のない確信だった。
…………これは、まずい。
月並みな表現をするなら、「嫌な予感」。
ストーカーなんてものは、まあ、女性が被害に遭うのが相場と決まっていると思っていたので。
別段夜道を歩く際自分がそういった目に遭うことを恐れたことは無く…………寧ろ前方を歩く女性に自分がそうであると勘違いされないように、そちらに気を配ってきたのに。
まさか自分が被害者になる日が来るとは、流石に想定外だ。
ひたひた、ひたひた。
新学期が始まってから、帰宅時間が何時になろうと決まって駅から着けて来る小さな足音。
最初は気のせいかと思った。
だが音は、歩調を速めようと遅めようと離れることは無いのだ。
くるりと振り返って見てもそこに人影はなく、首を傾げて歩きだすと止んでいた音も再び響きだす。
隠し撮り写真入りの封筒がポストに投げ込まれていたのは三日前のことだっただろうか。
一緒に映っていたローの顔は、御丁寧に塗り潰されていたっけ。
ひたひた、ひたひた。
この情報が何処まで正確な物かは分からないが、曰く彼ら狂人が行動を起こすのは、決まってこういう天候の悪い、澄まない夜なのだという。
即ちこの小雨降る細い夜道は、事が起こされるに絶好の場所という訳だ。
そして付け加えると、後ろから聞こえる足音は先程から徐々に早さと大きさを増している。
「…………」
何の前触れもなくぴたりと足を止めると、ざり、と土の擦れる音が、直ぐ後ろから聞こえる。
それはおそらくもはや数歩も空かない場所に奴がいるからだろう。
手を伸ばせば触れる距離に、すぐ、近くに。
肩に、何か触れた。
ぞっと背筋を嫌なものが駆けあがる。
「…………っ!」
「おい、何してる!」
その瞬間不意に背後、背後にいる何者かが立つ位置よりも更に後ろから、鋭利な叫び声が聞こえた。
刹那耳元を舌打ちが駆け抜けて、体当たりをかまされたペンギンは気付けば雨に濡れたコンクリートの上、傘も放りだして茫然と座り込んでいた。
「っ、逃げられたか…………!」
みるみる遠ざかる足音に、新たに現れた男――――察するに先程叫び声をあげた奴だろう――――は、歯噛みをするかのごとき雰囲気を醸し出していた。
「おい、お前…………大丈夫か?」
「あ、ああ…………」
未だ何が起きたか分からないというのが正直なところだったが、兎角差し出された手を掴み立ち上がる。
筈だったのだが。
「ジェ」
「は?」
「ジェイソ」
「違う!」
酷く奇妙な仮面を被った男の姿がその様相から酷く自然にありきたりな連想を呼び起こして、立つどころではなくなってしまう。
しかしそれも慣れた反応だったのだろうか、全てを言いきる前に男は全力の否定を叫んだ。
がばりと外された仮面――どうやらヘルメットだったようだ――の下からは至って普通の、否、普通よりはかなりレベルの高い造作が現れて、雨に濡れた金髪が跳ねるのを他人事のようにペンギンは見ていた。
「それより、大丈夫か?」
「あ…………」
心底心配する様な声音が耳に響いて、はっと我に返る。
慌てて振り向くもそこにはもう人影はおろか、自分と目の前の男以外の者がいたという痕跡すら残されてはいなかった。
「…………さっきの男は、知り合いか?」
「真坂」
「だよな…………となると」
「…………ストーカー、という奴らしい」
頭を抱えたくなるような衝動に駆られながら嫌々呟くと、やはりと言った体で大きく溜息が吐かれた。
今度こそ手を借りて立ち上がると、男は不安の滲み出る声で言った。
「他に、何かされたりは?」
「…………写真、送り付けられたりとか」
「…………どうして警察に行かなかったんだ、その時点で」
「だ、だって、男だぞ?俺。男が男にストーカーされてるなんて言えるか!」
「身の危険に比べれば羞恥なんて安いものだろう!」
大声で諭されて、ペンギンは思わずびくりと肩を揺らした。
それに気付いたのか、男はしまったという風に息を呑み、暫くの間を置いて場をいなす様に息を吐く。
「…………兎に角、こんな、あからさまに危ない道を歩いたりするな。自ら危険に飛び込む必要は無い」
「ああ…………ありがとう」
そこでふと、ペンギンは目の前の男に目を合わせて言った。
「…………なあ」
「ん?」
「俺達…………何処かで会ったこと、あったか?」
「…………何故」
「いや、俺には全く覚えが無いんだが…………初対面で、そこまで世話を焼かれると不思議な気分になって」
「…………気のせいだろう」
そういうと、男はそれまでの応酬を忘れたかのように冷めた目をして、くるりと背を向けた。
そのまま倒れていたバイクを立て、ふと気付いた様に言う。
「家、此処から遠いのか?」
「え?ああ…………いや、歩いて5分くらいかな」
「送って行こう」
「え…………いや、流石に初対面の人にそこまでして貰う訳には」
「キラーだ。目の前であんな現場を見て、そのまま被害者を置き去りに出来る程道は外れていないつもりなんだが、迷惑か?」
「…………」
「…………ペンギン?」
「いや、助かる。有難う」
未だ消えない肩に乗せられた手の感触に背筋は無様に凍りついたままだ。
例えそれが初対面の、良くも知らない男であったとしても、傍に誰かの温もりがあると言う事実は今のペンギンにとって酷く有難いことだった。
何故か名前を呼ばれた時、僅かな違和感が脳裏を過ったが、深く考えもせずにペンギンは頷いた。
「生憎ヘルメットの予備は持ち合わせていないから…………歩きになるが」
「乗せて貰おうなんて、そこまで図々しいことは考えていないから安心してくれ」
「そうか、それは良かった」
ずぶ濡れを極めて今更感は半端で無いが、それでも射さないよりはマシだろうと掲げ直した傘をキラーの頭上にも被る様に傾ける。
「そんなに傘を傾けては、お前が濡れてしまうぞ」
「もう十分に濡れてるから平気だ。お前こそ濡れるだろ」
「その科白の前半部、そっくりそのまま返させて貰おう」
暫し並んで歩くと、すぐにペンギンの住まいとしているアパートが見えた。
「何処に住んでるんだ」
「ん?」
「お前の家だよ」
「うーん、ここからバイクで20分……くらいか?」
「結構遠いんだな。何かこの辺りで用事でもあったのか?こんな雨の日に」
「まあ、色々、な」
逡巡した後で、ペンギンは言う。
「良ければ上がって行ってくれ」
「良いのか?」
「ああ。雨脚が弱まるまで休んで行けばいい…………礼にもならないが、コーヒーくらいは出す」
「それは有難いな。そろそろ夏だとは言え、流石に身体が冷えた」
「全くだ」
先立って階段を上るキラーの嬉しそうな声に、ペンギンは茶請けになりそうな菓子があったかどうか、戸棚の奥に思考を巡らせる。
扉の前に立つキラーの横から鍵を滑り込ませ、扉を開けた。
「狭いけど…………どうぞ」
「お邪魔します」
脳裏には未だ正体の分からない違和感が引っ掛かったままだったが、取り敢えず客人を招き入れて周囲に響かないよう静かに扉を閉めた。
勢いを弱めない雨垂れが何かを訴える様に頬へ落ちたが、無造作に拭い一先ずタオルを探して洗面所のドアを開ける。
背後に近づいた影には、気が付かなかった。
2012.05.07.
Q.違和感の正体は?