STAR FISH
「…………ああ…………ああ、分かってる…………お前こそ、無理をするなよ…………じゃあ」
ぴ、と電子音が響いて、通信が途絶えたことを知らせる。
そのままぱたりと受話器を置いて、キラーはひとつ息を吐いた。
ふたりで過ごすには些か狭いこのリビングも、ひとりでいると妙に広く感じる。
どさりとソファに腰掛けると、合皮が無機質な冷たさを背に伝えて隣に熱の無いことを嫌という程思い知らせて来た。
(…………たかが三日だ)
二泊三日の出張にペンギンが旅立ったのは昨日。
金曜に出発して、帰宅は日曜の昼か夜だと聞いている。
(明日には帰って来るんだから)
眩しい朝日が窓ガラスを吐きぬけてリビングの床を嬲るのを、じりじりと上がる室内温度を通じて感じながら暫しぼうっと梁を見つめた。
(今日はレポートを片づけて、部屋の掃除をして、洗濯物を干して)
ぼんやりとした頭で本日の業務内容を確認する。
(…………そういえば、食材があまり無かったな)
昨日の夕食は一昨晩の残りもので済ませた。
キラーは決して料理が不得手な部類ではないが、どうにも一人分を作るには張り合いが無いので尽力しようと言う気にはならない。
『俺がいなくてもちゃんと飯は食うんだぞ、分かってるな?』
キッチンはペンギンの聖域だ。
と言ってもただ単に家事の分担上調理がペンギンの役割であるだけで、キラーが足を踏み入れれば途端ペンギンの機嫌が悪くなるとか、そういった意味では無い。
掃除、洗濯はキラーが。料理はペンギンが。風呂掃除は日替わりで。
いつの間にかそんなスタンスが板についてしまったので最近ではキッチンに入る機会もめっきり減ってしまったが、これでも料理は趣味の範囲内だ。
しかし、どうにも。
(食欲が湧かんな…………)
起床から温いコーヒーを一杯流しこんだだけの胃はそろそろ空虚を唱えても良い頃だが、中枢神経が麻痺してしまったのだろうか、一向に食欲を感じさせない脳下垂体に不信を覚えながら、兎角行動を起こそうと、ソファから身を起こす。
テレビは点けたまま、静まり返った部屋はどうにも落ち付かないから。
無為の静寂は好ましいものの筈だったのに、そこに他者の立てる生活音が無いことへ寂寥を覚える様になったのはいつからだっただろう。
日が天頂を過ぎ、橙の光を投げながら山際に沈む。
その間にキラーは洗濯機を回して、掃除機をかけて、洗濯物を干して、レポートを終わらせて、風呂掃除をして、足りない食料を買い出しに行って、洗濯物を取り込んで、畳み終えてしまう。
昼には籠に放りこまれていた消費期限寸前の菓子パンを摂った。
やはりブラックコーヒーで流しこまれたそれは一日に摂取すべき栄養の殆どを満たすものでないと言えたが、感じない空腹を紛らすことには成功した様で。
日も沈む頃になって尚未だキラーの胃は文句を響かせていなかった。
黄昏の光に満ちたリビングで、電気も点けずに手元の文庫へと目を落とす。
点け放しのテレビは随分と前にBGMと化して、ノイズでこそないもののそれに通ずるものがある程度には意味の無い役者達の奇声が、鼓膜を右から左へと綺麗に突き抜けて行った。
「…………」
栞も挟まずにぱたんと閉じられた本は、力なく床の上へ落ちる。
本日幾度目とも知れない深いため息は、ともすれば体中の空気を吐き出してしまうのではないかと言う程長く、長く呼吸音を響かせたが、無機質な停滞を払拭するには敵わなかった。
そのままごろりとソファに横になれば、足先が少しはみ出してしまうものの冷たい合皮は無愛想にキラーを包み、漫然とした睡魔を呼び寄せたようで。
(…………このまま眠ってしまおうか)
明日の朝、遅くても昼には彼も帰って来る。
人の生活に回帰するのはそれからにしようと、全ての思考を放棄して瞼の裏の闇に縋った。
+
ガチャ、とドアノブを回して、大きな音をたてないように気を付けながら扉を開く。
然程古くも無い立てつけなのにドアはギイと軋みを上げて、咄嗟に近隣住民の睡眠を妨げはしなかったかとペンギンは小さく辺りを見回した。
「ただいまー…………」
時刻は深夜一時。最終の新幹線に乗って、電車を乗り継いで、タクシーで階下まで送って貰った所だ。
廊下とリビングを仕切るドアの硝子越しに、電気もついていない中テレビの画面だけが茫洋と光っているのを見咎めてふと眉を顰める。
「キラー?」
中途半端に開いた扉を、重い荷物をぶら下げていない方の手で押し上けてそっと名を呼ぶと、暗がりのソファに金髪が力なく掛かっているのが見えた。
とさりと荷を降ろしネクタイを解きながら近づく。
無為なテレビの電源をかちりと切って、呼吸音すらさせずに眠るキラーの傍へそっと屈み込んだ。
「キラー」
「ん…………」
「お前、何でこんな所で寝てるんだ」
「…………ぺん、ぎん?」
「ああ」
「…………あした、かえってくるはずだったんじゃ」
「予定より少し早く仕事が片付いたから、上司に断って最終の新幹線で帰って来たんだよ」
急ぐことは無いと顰め面をされたけれど、どうしても早くお前の顔が見たくて。
そんな言葉は飲み込んで立ち上がって台所を覗き込めば、今日一日その機能がまるで使用されていないことが手に取るように分かる。
マグカップだけが淋しげにシンクの上へ置かれていて、そっとそれを撫でた後少し怒ったような顔をしてペンギンは言った。
「キラー、お前、今日何も食べてないだろ」
「んー…………」
「俺がいなくてもちゃんと作って食えって言っただろ?」
ふう、とひとつ息を吐いて、ようやく上体を持ち上げたキラーの顔を覗き込むように膝を付いた。
「ただいま」
「…………ペンギン」
ふ、と笑って挨拶をすると、キラーは酷く切なげな顔をする。
回された腕を解くことなく享受してあやす様に背を叩いてやると、肩口に顔を埋めたままキラーがぼそぼそと言葉を零した。
「…………俺、やっぱりペンギンが居ないと駄目だ」
「うん」
「ペンギンが居ないと、淋しくて」
こころにぽっかりと穴が開いた様な気分になるんだ、と呟く年下の恋人の温度を、ペンギンはじっと感じている。
「ペンギン」
「ん?」
「…………おかえり」
漸く顔を上げて此方を見たその目は夜闇にも分かる程哀しい色を湛えていて、不安定なその色に口付けを送ると一筋の涙が零れた。
「ただいま」
もう何処にも行かないよ。
そう言って今度は此方から抱き締めてやれば、戸惑った様な間の後にぎゅっと抱擁が返される。
取り敢えず、もう一度この腕を引き剥がすことに成功した暁には温かいスープでも作ってやろうと頭の片隅で考える。
深緑も盛んなこの季節には些か外れているけれど、こんな星の夜にはきっと、温もりを宿したマグカップを揃いで持てば他愛のない寂寞も晴れるに違いないから。
開け放たれたカーテンの向こうに明日の快晴を思わせるような夜空を見て、ペンギンは二日ぶりの体温にそっと身を委ねた。
2012.05.27.
title by ELLEGARDEN