露草に啼く、
「ペンギン、あそこなら暫く留めて置いて貰えそうだ」
「ああ!」
突然の雨。
午前中から空を覆い始めていた薄い雲は、日中を過ぎると同時にどんどん厚みを増して気付けば辺りに酷い豪雨を叩きつけている。
梅雨も盛りだと言うのに愚かにも傘の携帯を忘れたペンギンは、歩を速めて同じく水気に髪をしっとりと濡らしたキラーの背を追った。
「ここは……何だ?」
開かれた鉄の門を潜り、建物へ通ずる大きな扉の上に突き出た廂の下で雨を凌ぐ。
すっかり濡れてしまった身体を広くは無い屋根下へ押し込んで、どちらともなくふうと息を吐いた。
通って来た石畳の通路の両脇には緑鮮やかなアイビーが程良く空間を縫いながら自然の網を濡れたコンクリートの壁へ掛けている。
明るい陽の下で見ればきっと美しいであろうその色も、暗い空の下では暖色を奪う健気に中途な中間色に留まっていた。
せめて枝垂れる蒼い紫陽花でもあれば賑やかになったろうにと、殺風景な空を見てペンギンはしなくても良い心配をする。
水無月半ばにも関わらず嫌に低い気温は、じっとりと濡れてしまった服の冷たさと合間ってさあ風邪を呼び込まんと言わんばかりの不快を肌に残した。
試験を控え、レポートの期限も近いこの時期に発熱の患いは正直勘弁願いたい。
しかし少しでも雫を払い落そうと濡れた頭をふるふると振った所で齎されたのは微かな眩暈だけで、ペンギンはくしゅんと控えめなくしゃみをした。
それを見止めたキラーが、ばさりと自身の羽織っていたカーディガンをペンギンの頭に被せる。
「どうせ濡れているから然して役には立たないだろうが、無いよりはマシだろう。被っておけ」
「…………お前、寒くないのか?」
「全く、と言えば嘘になる」
白いカッターは濡れたままに肌へ張り付いて、見ている此方が寒々しい。
「風邪引くぞ」
「お前が引くよりは俺が引いた方が良いだろう」
「何故」
「俺が風邪を引けばお前はきっと手厚く看病してくれるんだろうが、お前が風邪を引いても俺は一体どうしたら良いのか分からない」
「…………」
「それに、お前に看病して貰えるなら風邪くらい。寧ろ望む所だしな」
「…………勝手に言ってろ」
事もなげに言う横顔にほとほと呆れが漏れるが、こと彼に関しては例え拒まれたところで自分が看病の手を休めることは無いだろうと言う所まで想像を巡らせて別の意味の溜息を吐いた。
「で、此処が何処かという話だが」
キラーがぽつりと呟いて、徐に背にした扉をぎいと押し開けた。
鍵の掛かっていない重厚な木目のそれは見目相応の重さを備えているようで、片手に押す表情は少し堅い。
「おい、良いのか?勝手に開けて」
「構わないだろう。人の気配はしないし、鍵は空いている。それにここは」
暗い空にも確かに漂う光が隙間から一筋の視界を投げ込んで、灯りのない室内を薄く照らす。
楯に広い室内、確りとした造りのベンチが規則正しく一方向に並べられて、最奥にある大きな十字架を眺めていた。
「教会?」
「らしいな。先程駆けこむ直前、屋根に十字架のモチーフが飾られているのを見た」
かつん、と少し高いヒールを鳴らして、キラーが足を踏み入れる。
良い加減濡れた身体に吹きつける風の冷たさに辟易して来たペンギンも、不法侵入に心を少し傷めながらそろりと後に続いた。
「迷える仔羊を救う、教会の意義だろう」
「…………どの口が」
華美な装飾は一切無く、あるのは椅子と、祭壇だけ。
コンクリートが打ち放された壁には装飾も、聖画の類すら見受けられず、最初に目に飛び込んだ十字架も、よく見れば壁に繰り抜かれた型であることが伺い知れた。
天上へ届くかという程の大きさを誇る十字の造形は外の光を淡く室内へ導いて、無彩色の自然光が不思議と視野に馴染む。
ペンギンは生憎と信じる神を持っていないが、心が洗われる気がして少し目蓋を伏せた。
「今日は土曜だから、ミサも無いのかな」
「さあ。俺は宗教に詳しくは無いからよく分からないが……人が居ないと言う事は、そういう事なのかもしれないな」
「このシーズン、教会は大忙しだろうに」
「?どうして」
「ジューンブライド、とか、あるだろ?」
口にして、少し気恥ずかしくなる。
一方のキラーは言葉の意味を図りかねてきょとんとした顔で此方を見ていて、男なのにこんな知識を持っている自分は女々しいのだろうかと曖昧な気持ちになった。
「6月に結婚した花嫁は幸せになれるっていう伝承があるんだ。この国の物ではないけど」
「ふうん」
「今日は休日だろう?言い伝えにあやかって6月に式を挙げたがるカップルは多いって聞くから、教会は忙しいんじゃないのかなと、思っただけだ」
「…………こんなじめじめとした、雨の多い季節に結婚式だなんて。物好きだな」
「言い伝えられている地域では、6月は1年中で最も雨が少なく良い天気が続く季節らしい。この国においては完全に外れてるが…………まあ、俗に言うコンプレックスってやつじゃないのか。外国に対する」
「そういうものなのか?」
「俺に訊くなよ」
不思議そうな顔で髪を掻き上げるキラーの左薬指に嵌められた細いリングが、不意にその存在を主張するかのようにきらりとペンギンの目に光った。
直前までの話が脳裏に閃き、今この場所と相まってじわりと頬に熱が宿る。
その輝きが急に存在感を増したような気がして、思わず自分の指に嵌った同じ型のそれをぎゅっと右手で覆い隠した。
「ペンギン」
「な、何だ」
「良いから」
にこ、と微笑んでペンギンの腕を取ったキラーは、怪訝な顔をした恋人を捉えたままゆっくりと講堂の中央を進んで行く。
一際明るく光を取り込んだ祭壇の前に立って、静かにその左手を取り上げて言った。
「こういう時、何て言うんだっけ?」
「…………何が」
「健やかなる時も、病める時も?」
「…………馬鹿じゃないのか」
淋しそうに笑って、ペンギンが言う。
「神は俺達を祝福しないよ。お前だって知ってるだろ?」
「…………」
「俺達は、背徳者だ」
「…………世界の全てが閉じても、俺はお前を愛し続ける」
その瞳がやけに真摯なのを見て、ペンギンは思わずふっと息を呑んだ。
「…………花嫁のヴェールみたいだな?」
自分が放って被せた白いカーディガンをそっと捲り、キラーがくすりと笑みを零した。
視界が少し明るくなって、ふと顔を上げると同時に額へ落とされた唇が乞い縋る様に向けられる視線に絡み堪らない心地になる。
「…………るさい」
痛い程に熱くなった頬の色がどうか光の無彩色に馴染んで溶けていますようにとペンギンは心の何処かで願った。
しかし添えられた掌は冷たくて、温感からこの火照りが見抜かれてしまったことは容易に推測出来て、半ば悔しさを感じ慌てて目を閉じた。
「愛している。これまでも、これからもずっと」
「…………うん」
聞き飽きた筈の愛の言葉が、今日は何故か少し違う色を帯びているような気がして胸の奥が傷んだ。
素直になれない自分を恨めしく思いながら、それでも精一杯の誠意を込めて科白に首肯を零すと、壊れものを触るかのように優しい口付けが降り注ぐ。
静を侵す雨露だけが、霞むような啼き声を世界に投げていて。
世界が閉じる音を聞いた。
2012.06.25.